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 TOP小説私心伝心>「タマしい」





■■1

 要は電話に出なければ良かったのだ。受話器を取ってしまってから毎度のように後悔する。化粧品の売り込みだったり、無言だったり、変質者だったり、間違いだったり。ロクな電話の試しがない。大体、親しい人からは携帯の方に掛かるのだから、いっそ家電話は解約してもいいくらいだが、そうはし辛い思い出がある。引っ越しで今の番号になった時、母が、
「ねぇ、瞳子トウコ。8989だって。ワクワク番よ、覚えやすいしいい番号ねぇ。いいことあるといいわねぇ」  と言ったのだが、その頃は私にとっても母にとっても人生最悪の時期だった。父が突然居なくなった。借金取りに追われたり、父の実家とゴタゴタしていた。なにせそんな風だったから、私はのほほんと電話番号ごときのゴロアワセに屈託なく微笑む母に「何をのんきな」と呆れもしたし、「強い人だな」と感じ入りもした。そういう思い入れがあるものだから、母がガンで逝ってしまっても、解約も市外への引っ越しもずっと出来ずに今までいる。

 ワクワクの電話機が鳴ったのは昨日である。
「藤田さんですか。こちら茨城県警ですが」
 『警察』と聞いてドキンとした。特に思い当たるでもないのに、やましい気持が湧いてくるのは不思議なことだ。
「ヒトミコさん……いや、えーっと」
 警察の人は書類を持ちかえたようだった。電話越しに紙の擦れる音がする。職場でも課長がよくやる。顔から離して目を細めつつ書類の文字を読むのだ。もう老眼かなぁ、なーんて。そんな時、シゲさんが言うのだ。「課長、拡大鏡買いなさいよ。カズキルーペ。高いけど便利だよ」
「えー、トウコさんでよろしいんですかね……は、ご在宅でしょうか」
「はい、私ですけど」
 無意識に背筋を伸ばして、私は答えた。警察からの電話。それだけでもごく平凡に暮らしている私には驚きなのに、なんと警察は、ずっと行方知れずだった「父が死んだ」と言うのである。その上、「つきましては、遺骨の引き取りをお願いします」と言うのだった


 遅い時間だったが会社に休む旨の連絡を入れた。女性職員以外はいつも遅くまで仕事をしている町工場だ。課長ではなく重田さんが出た。
「大丈夫、病気?」とシゲさん。
「父が……。いえ、なんでもありません。一身上の都合です」
「お父さん?」
 ひそめた声でシゲさんが言った。
「見つかったの? 大丈夫かい? 困ったことがあるなら……」
 作治さん、と私は思う。父のことは寝物語に話した記憶があった。
「あの、父が見つかったんです。死んで。警察から連絡があって遺骨を引き取って欲しいって。茨城で。明日行こうと思って……」
 電話口で、すっと息を飲む音が聞こえた。「そうか」と呟く様に言う。
「分かった。藤田君おやすみね。……大丈夫なの?」
「はい」
「忌引きだね。三日間休めるから。課長には伝えておくよ。お悔やみ申し上げます」
「はい。シゲさん、あの……」
「ん?」
「明日、会えますか?」
「分かった」
 電話が切れた。

■■2

 そうして私は不承不承ふしょうぶしょう、父の遺骨を引き取りに行った。モロモロのお役所らしさを漂わせる面倒な手続きが山とあって、印鑑押しと書類書き、その合間合間に「お身内の突然のご不幸で」や、「お悔やみ申し上げます」の決まり文句を連発されたが、白布に包まれた箱を手に「コレは果たして私が引き取るべき筋なのか?」とか、確かに戸籍上の父ではあるが、心情としては「他人よりも遙かに遠い」とさえ思ったりした。妻子を捨てた男の骨だ。十五年前、多額の借金だけを残してふつりと消えた男の骨。さぞかし軽薄に軽かろうと思っていたのに、一抱えあるこの箱は私の膝を占領して重かった。

 ずっと行方知れずだった父は、茨城のなんとかという児童公園で死んでいたんだそうである。滑り台の端っこで、ずだ袋を膝に抱え込むようにして座っていた。遊具で遊びたい子どもが「あのおじいちゃんがどいてくれない」と、母親に言いつけて、その後、救急と警察が呼ばれた。小さな町の小さな騒ぎ。
 いつもは人影もまばらな児童公園に集まる沢山の人だかり。子ども、お母さん、そして老人。ポケモンよりお天気の話より健康問題より随分面白い話題だと語り合ったに違いない。それとも、眉をわずかにひそめつつチラリと見て、みな足早に去ってしまったんだろうか。父とは所詮が死体になってもその程度の人間だったか。

 事件性はなかったそうだ。よくある浮浪者の行き倒れ。唯一の所持品のずだ袋には身元を示すものはなかったらしいが、一つだけ、女性名義の古い銀行通帳が入っていた。私の祖母――つまり、父の母親――のものだ。お婆ちゃんの生前は何度も金の無心をしたらしい。そこから辿って、警察は先ず父の弟に連絡を取った。祖母は既に亡くなって、家は叔父が継いでいるのだ。遺体の引き取りを促された叔父は「冗談じゃない」と言ったらしい。
「冗談じゃない。兄には成人した一人娘がいます。そっちに引き取らせてください」
 冗談じゃないのはこっちも同じだ。父が失踪したのは私が十五の時だった。今更生きている父も要らないし、死んだ父も必要ない。
 それでも、誰かが引き取ってくれなくては困ります、と警察。それは確かにそうなのだろう。縁とゆかりがあってさえ不要なものを縁もゆかりもない警察が要るわけがない。


 ゴトンゴトンと電車が揺れる。向かいの窓に映るビルとビルの間から切れ切れに秋の夕陽が差してきて、白地の布をこれ見よがしに目立たせる。無意識に黒の上下の服を選んだことも白い包みを強調していた。周囲の目がこちらをちらっと盗み見ては離れていく。私は紙袋だの風呂敷だの旅行鞄だの、とにかくこの膝の上のお荷物を人目から遮る何某なにがしかを用意してくる知恵の湧かなかった自分に心の中で舌打ちをする。父が死んだ。あの父が死んだ。
 どうしようか。
 私は思う。引き取らされてしまったが、コレ、イラナイ。
 警察とのやり取り中は強く実感が湧かなかったが、今こうして抱いているものの重みを知ると嫌悪がつのる。払い落としてしまいたくなる。周囲の目さえなければ……。電車はもうじき私の住む町に着く。

 電車の中の忘れ物を特集したテレビ番組を観たことがある。定番の傘、帽子、季節を感じるマフラーや手袋。そして珍しい忘れ物というので、なんと骨壺があったのだ。あの時は、そんなものを忘れるなんて随分と間抜けで薄情な人がいるんだなぁと思っていたが、なんの。そうじゃなかったんだな、と今になって腑に落ちた。要らない厄介なお荷物を忘れたふりで捨てたのだ。きっとそうだ。違いない。私は上を見上げる。網棚のなんと魅惑的なスペースよ。
 前に立つ人と目があった。私を見、白布の箱をちらっと見てから目を逸らす。その後もちらちらとこちらを伺っている。野球帽を被った男の人。革ジャンを着ている。競馬の帰りかもしれない。新聞紙を小脇に抱えている。私はとにかくこの膝の上のお荷物を人目から遮るものが欲しい、と切に思う。骨壺がもっともっと小さければ良いのに。そうしたら犬の糞の様に新聞紙にくるんでやるのに。網棚に置いて去ってやるのに。父は私を捨てたんだから、今度は私の番である。因果応報でいいじゃない。

 駅に着いた。私は箱を抱えて降りる。ドアを抜ける時、夕暮れの強い日差しが私を射た。眩しいのは、疚しく、口惜しく、腹立たしいことだと思った。

■■3

 さて。1DKの安アパートで、私はさっそく父の箱の置き場に困っている。ローボードの上の母の位牌と一緒に置くのは業腹だった。テーブルの上は私がイヤだ。だって今からご飯である。父と食卓を共にするなんて御免被る。本棚やタンスは背が高いし、ベットの上に置くのもイヤだ。結局、フローリングの床の隅っこに父を置いた。そうして昨日の残り物をレンジでチンしてご飯にする。

 食事をする視界の端に白い物がよぎる。見たくもないのに目が行ってしまう。食欲が湧かない。里芋の煮たのを箸でつつく。子どもの頃、給食で出る煮物はいつも生徒に不評だった。私も嫌いだったが三十を超えた頃から好きになった。母の味を思い出しながらこしらえた物だ。
「給食費……」
 嫌な事を思いだした。小学校の給食費。三年生だった。当時四四〇〇円だった給食費を父は札だけ盗んだ。気づかぬまま封筒を学校に持っていき、担任の先生に「藤田さん、きっとお母さんが入れ忘れたのね。明日持ってきてね」と言われた。父の仕業だ、と私はすぐに察した。母がそういう粗忽をするわけがない。小銭は残しているのも父らしかった。とびの父は働いたり働かなかったり金欠病のくせに、細かいお金にはとんと無頓着だった。「コーヒー代にもならねぇ」そう言って「財布が膨らむのはかっこが悪い」と二〇〇円だの三〇〇円だのを私にくれる時があった。私はその日、とぼとぼと家に帰ってきた。また夫婦ゲンカになってしまう。また父と母の怒鳴り合いを聞くのだ。イヤだイヤだと思っても子どものお小遣いで四〇〇〇円は到底出せない。給食費の不足を母に伝えると母は存外に怒らなかった。目頭を赤くして、ただ「情けない……」とだけぽつりと言った。

 部屋の隅に置いた白布で覆われた箱を見る。蹴ってやりたい衝動に駆られた。箸を握る手が白く震える。借金を負わせ、子どもの養育さえせずに全てを母に押しつけた男の骨だ。何故引き取ってしまったんだろう。
 高校を卒業し、私が工場で働くようになって、借金返済のメドも付いた。やっと母と私は息が出来た。そうして母が癌になった。母は「小さいけど保険に入っていてよかったね」と笑った。笑った……。
「瞳子、一人で生きていけるわね? 大丈夫よね?」
 父を見て育ってどうして結婚に夢を抱けるだろう。「結婚なんかしない。男なんかいらない」いつもそう言っていた私を病床からじっと見据えて母は言った。母は一人っ子の私にいい人が出来る日を夢見ていた。
「瞳子、きっとワクワクする様なことに出会えるから。お前が私にとってのワクワクだったから。いいわね。生きて行きなさい」
「お母さん……」
 母の骨壺を抱いた時、涙が溢れて止まらなかった。そういえば、父の骨には嫌悪しか沸かないことに気づく。
「蹴ってやりたい」
 そう父の骨に聞こえる様につぶやいた。


 ピンポーンと玄関の呼び鈴が鳴った。シゲさんだ。席を立って急ぎ足にドアを開けると菊の花を持ったシゲさんが立っていた。
「瞳子ちゃん、大変だったね」
 シゲさんがそっと抱きしめてくれる。温かい。
「はい。……いいえ。大丈夫です。母の時とは違いますから」
 そうだ。母の葬儀の時、項垂うなだれた私の肩にそっと手を置いてくれたのがシゲさんだった。「独りぼっちになっちゃった」私がぽろぽろ涙をこぼすと、ぽろぽろぽろぽろシゲさんも涙をこぼして「藤田さんには人情がある。人情のある人間はきっと人情に助けられる。強く生きていくんだよ」と、母と同じようなことを言った。他の工場の人も見ている前で私は子どもの様にわっと泣いたのだ。その後もシゲさんは私を何かと元気づけてくれた。母の一周忌にも一人だけ来てくれて。二人だけのこの部屋で私は「シゲさん、寒い。温めて」と言ったのだった。シゲさんはぎこちなく私を抱きしめて、そして抱いた。
「五十のジジイが若い生娘に手を出しちまった。お母さんに面目が立たねぇ」
 私は処女だった。生娘という言い方にこそばゆい喜びを覚えた。そんなシゲさんに捧げたかったのだ。
 ベットの中で私の頭を撫でながら、シゲさんは何度も「すみません、すみません」と謝っていた。


「仏さんは?」
 シゲさんは見回して、床の隅っこに父を見つけた。
「瞳子ちゃん、これはいけねぇ」
 シゲさんが遺骨を持ち上げ、ローボードの母の位牌の横に父を置いた。花瓶を取って――いつも造花が入っている。生花は高い――持ってきた菊の花を台所で活けてくれ、それを白い包みの隣に置いた。
「幾ら悪い父親でも骨になっちまえばそれは仏だ。粗末にしちゃあいけねぇ」
 ロウソクに火を点け、線香に火を灯す。チーンを鐘を打った。手を合わせて焼香してくれる。
「さ。瞳子ちゃんも祈りな」
 シゲさんが数珠を渡して促す。
 死んでしまえば仏。そうだろうか。父が行方知れずになったその日。父は十五の私に無心した。
「瞳子、三〇〇〇円だけ貸してくれ。すぐ返すから」
 高校生の私はバイトをしていた。そのくらいのお金はあった。絶対に返してくれないだろうお金。分かりきっていたのに何故だろう? 私は財布から三〇〇〇円出した。私が働いたお金。大事なお金だったのに……。父が卑屈な笑いを浮かべ、
「ごめんな」
 と言った。ちっともすまなそうではなかった。たった三〇〇〇円。三〇〇〇円ぽっちをねだる父。イヤだった。この人の娘であることに虫ずが走った。居なくなれば良いと思った。まるでゴキブリでも見る様な目で父を見ていた、と思う。父は私のそんな目に気づいたのか、一瞬怯んだ。そしてそそくさと家を出て、それきり戻ってこなかった。
「イヤ」私は言った。即座に口を突いて出た言葉だった。
「この人のために祈るのはイヤ!」


 シゲさんは神妙な顔をした。
「オレにも別れた女房と瞳子ちゃんと似たような歳の娘がいるが」
 知っていた。仕事ばかりのあなたにほとほと愛想が尽きました。いつか仕事も定年退職してその後ずっとあなたと顔つき合わせて生きるのかと思うと反吐が出ます。別れて下さい。そう奥さんが言ったそうだ。
 反吐が出る。非道い言葉だ。ちゃんと働いて、お金もきちんと家に全て入れて――お小遣いはずっと二万ぽっきりだったと苦笑いしながらシゲさんが言っていた――それでも、家族に捨てられる人も居るのだ。母はいつも「十万でいいから毎月家に入れてくれたら」と言っていた。母はシゲさんみたいな人と結婚したかったに違いない。私もシゲさんと結婚したい。叶わぬ夢だろうけど――シゲさんは私達の仲を工場にばれないか、そればかりを気にしている――私はシゲさんみたいな人と結婚したい。
「そんな風に娘に言われたら、ショックだなぁ」
 シゲさんに促されて仕方なく焼香した。祈りの言葉は浮かんでこなかった。さっきのように蹴ってやりたいというような怒りの文句も浮かばなかった。私は無の心で焼香した。今更父に何を思えというのだろう。

 そんな私をシゲさんはもう一度抱きしめた。キスをする。
「忘れるところだった。これ……」
 と、香典袋を取りだした。工場の人達からのものだった。
「忌引きだから。オレが話通しといたから。あと二日ゆっくり休みな」
「はい。ありがとうございます」
 しばらくしてシゲさんは帰っていった。

■■4

「骨になっちまえばそれは仏だ」
 シゲさんの言葉が何度も胸の中でリフレインされる。本当にそうだろうか。私の心は晴れなかった。眠れない。それでも疲れていたのだろう。いつともなしに寝入っていたようだ。気がつくと朝になっていた。朝と言うより昼に近い。目覚めはよかった。パジャマを脱いで洗濯し、テレビを見ながらコーヒーを煎れる。父の骨壺が目に入る。
 立っていって箱をテーブルに持ってくると白い布の結び目をほどく。更に白い陶器の骨壺を開けてみた。がれきの様な父を想像した。が、違っていた。

「え?」
 思わず声が出る。
 奇妙な白い、まん丸のものが入っていた。父の骨壺の中に、である。
 焼かれた骨というものは、白といっても所々は茶色や薄い黄色が混じる。表面はざらついて、端は尖りを持っている。薄っぺらで砕けている。のど仏の小さな塊だけが骨壺のてっぺんにちょこんと乗っている、そういうものだ。幾つかの葬儀で見たので分かる。一番最近見たお骨は母のもの。もう三年も前になる。
 真っ白でつるんとした球体は、そういうごく当たり前のお骨の代わりに、骨壺の中にころんと納まっていたのだった。
「……ボール」
 に見えた。テニスボールの大きさである。指先でそっと突いてみる。
 片栗粉を少量の水で溶かしたような、ぬっぺりとなめらかで、湿ったような質感だった。かといって、押した指がめり込むような風もない。しっかりとした弾力があった。突いた指の先を見る。粉や湿りが指に移るでもなかった。どうも材質の得体が知れない。恐る恐る取りだして手の平に載せると、ひんやりとしている。ただ丸かった。

 どうして、こんなものが骨壺の中にあるんだろうか。第一、これはなんだろう。もっとよく見てみようと手を目の高さまで持ち上げてみた時である。
「あっ」
 落とした、というか、それは落ちた。床についた時、「テン」と軽い音が鳴った。


 床でバウンドしたそれは、みるみる私の胸の高さにまで上がった。そして重力の法則に従ってまた落ちていく。もう一度「テン」。
 なんだ、やっぱりボールだったか。私は吐息混じりの笑みを浮かべる。なーんだ。ああ、もう、びっくりした。なんだか意味深に骨壺の中に入ってるから、なんだろうと思っちゃった。ボールを掴もうと手を伸ばす。

 ボールは。驚いたことにボールは、私の手を逃れるように後ろに「テン」と弾みをつけて一歩下がった。え、と思う。見間違いか。今度は両手ですくうように弾むボールの真下に入れる。すると、ボールは何もない空中で突如方向を変え、横に飛んだ。そのまま、さして広くもない私の部屋を、テン、テン、テンとナナメに横断する。

 二人掛けテーブルの横を通って、テレビの前で一度跳ねる。本棚の前で二度跳ねる。鏡台の所では三度跳ねた。母の遺品の古いもので椅子は壊れて既にない。そして、ボールはローボードの前でなぜか突然立ち止まった。立ち止まると言っても、そこはボールだ。やはり跳ねたままなのだが、私にはそれが立ち止まったように見えたのだ。一箇所に留まり、「テンテン」としている。白いボールの跳ねる度合いが低くなった。私の腰の高さ程度でずっと一定に跳ねている。その様が今度はうつむいた人であるように見えてきた。俯くボールの眼前――つまり、ローボードの上――には、母の位牌と遺影が置かれているのである。

 母の位牌の前でうなだれる、父の骨壺から飛び出した不思議なボール。
「……お父さん」
 異常な事態に驚いて固まっていた私の口のこわばりがようよう解けた。
「お父さん、なの?」
 白くて丸いそれは、ただずっと床で跳ねている。

■■5

 私の目の前では、謎の未確認弾性球体がただひたすら跳ねている。
 父なんだろうな、と思う。不本意ながら。言葉を話す訳でなく、表面に顔が浮き出ることもなく、明確な意思の疎通があるでなく。それでも、このボールには僅かばかりの人間味が感じられる。なにしろ形も……ほら、「魂」というくらいだ。「タマしい」だ。白い色もいかにも霊魂を思わせる。白という色が父に似合うかどうかは知らない。

 見かけ丸い。きっと中身がない。弾むだけは調子よく弾む。低い方へと転がりたがる。表面はのっぺりしていて掴み所がまるでない。父の魂そのものだ。玉と魂。ボールそのもの。
 こんなものになり果てて化けて出たか、と思う。怖いという気持ちは浮かばなかった。そうだ。父は怖い人ではなかった。母と始終口論していたが、母にも私にも手を上げたことは一度もない。金のある時には母にも生活費をやっていた。月に四〇万貰ったこともあるのよ、と母が言っていた。けれどない時にはやらない。借金する。寧ろそういう月の方が多い。そんな人だった。

 母の位牌の前で小さく跳ねているのに「お母さん死んじゃったんだよ。三年も前に。お父さん知らなかったでしょう。お父さんの所為だよ」そう言うと、神妙そうに更に跳ねが低くゆっくりになった。衝動に駆られてテーブルの上のテッシュボックスを投げつけてやる。器用に避けた。鳶職だった父は身が軽かった。腹が立つ。
「私もう三十だよ。お父さん、私の歳なんか覚えちゃなかったでしょう」
 テレビが今日の天気を告げていた。

 ボールがテーブルの上に飛び乗った。コロコロと転がってコーヒーのカップにそっと近づく。コーヒーと焼酎。父はその二つしか飲み物を飲まなかった。コーヒーが欲しいのだろうか。第一飲めるのだろうか? 知らん振りを装う。


 ベランダに出て私はタバコに火を点けた。ちょっといろいろ整理したい。狭いベランダだ。干している洗濯物を払いながらタバコを吹かす。ベランダから見える景色はいつも通りだ。灰色の屋根が建ち並び、少し離れたところに銭湯の煙突が見える。今は煙が出ていない。カアカアとカラスが鳴く。ごく普通のありふれた日常。でも居るんだよね、ボール。室内を伺うと、突然ボールが額にぶつかってきた。
「痛っ」タバコを落としてしまう。父はタバコを吸わなかった。そしてタバコを吸う女が大嫌いだった。
「今更父親ぶるのは止めてよ。お父さんの所為でこんな不良になっちゃったんだからね」
 言うと、テテテテとベランダの天井と床を交互に激しくぶつかり跳ねる。私の背より高く跳ねたボールはそのままベランダの柵を乗り越え、三階から一気に落ちた。テーンテーン。
「え、ちょっと……」思わず手摺りを掴んで下を見る。テンテンテン。
「ちょっとこっちに来い」
 そう言っているような気がした。父は私を叱る時いつもそう言った。
「ナニよ、今更父親風吹かそうって言うの?」私は階下に向けて声を荒げる。「行きませんからねーだっ」落ちたタバコを拾い上げる。これ見よがしに吹かしてやる。
 テンテンテン。
「コッチニ来イ」
 テンテンテン。テンテンテン。
「あー、もうっ」
 私はタバコを揉み消す。習慣でトートバックをひっつかむと階段をカンカン降りていった。

■■6

 父は私が来たのを見るとテーンテーンと雑草生い茂る敷地の外へ出た。ちょうどゴミ出し途中の人とすれ違う。散歩途中らしい老人も父には気づかないようだった。私の頭はおかしくなったんだと思う。これは私にだけ見える幻なんだ。母が逝った時も私は狭いアパートの中に何度も母の幻を見た。ご飯を作っている母、洗濯物を畳む母。父がボールに見えるのは父の面影をもうよく覚えていないからかもしれない。父が失踪してから一五年。一五年……。
 そうだ、と思った。幻でも何でもいいや、父をどこか遠くへ捨ててやろう。河川敷が良い。河に投げて捨ててやろう。今度は私が捨ててやろう。

 そういう私の思惑を察したのか否か。ボールはテンテンと坂道を転がり始めた。重力の法則に従って加速していく。
 私は足を速めた。待ちなさいよ、絶対捨ててやるんだから。そうして、ただどこまでも楽な方へ、安易な方へと転がって行く気なんでしょ。私が怖いんだ。後ろめたいんだ。絶対に許さない。この手に捕まえてやる。秋の風がピューと吹いた。寒くはなかった。寒いのは心だった。


 逃げた、と思った父は坂道の終わりで電信柱にぶつかりながらテンテンと私を待っていた。少しほっとする。ちょうど病院の前だった。電信柱に寄り掛かり私ははあはあと息を整える。走ったのなんて久しぶりだ。病院から出てきた親子連れが怪訝な顔で私を見た。私の横で跳ねている父にはやっぱり気づいていない様子だった。

 鳶の仕事中に父が落ちて足首を折ったことがある。母と走って病院に行った。足を天井から吊られたベッドの中から、父は「おー、来たか。すまんな」と言った。痛いそぶりは見せなかった。幼稚園の時、私が高熱を出した。夜中だというのに父は私を負ぶって走った。かかりつけの病院のドアをドンドン叩いて「センセイ、急患です。急患です」
 月の明るい晩だった。お月様がこっちを見ていた。
 なぜ思い出すのだろう。
「お父さん、お父さん知らないでしょう? 私も高校の時、自転車に乗ってて転んで足折ったんだよ。すごい痛かったよ。なんで……」
 なんで、お父さん私が「痛い?」って聞いた時「痛くないよ」って笑ったの?


 私の息が整った頃、父はまたテンテンと歩き出した。私はその後を付いて行く。「ほら、ここに入りなよ」とトートバッグの口を広げて見せたが父はイヤなようだった。私の幻のくせに言うことを聞かない。憎たらしい。いっそ鍋で煮てやろうかと思う。
「瞳子、石川五右衛門って知ってるか?」一緒にお風呂を使っていた。父の声がタイルに跳ね返って響いた。「知らない」と小さな私が答えると、身体を洗い終えた父はザバーと湯船を溢れさせて湯に浸かった。
「石川五右衛門は大泥棒だ。捕まって釜ゆでの刑にされた時、息子も悪い奴の子だってんで、一緒に窯に入れられた。五右衛門はこう息子を両の手で頭の上に抱え上げて息子だけは釜ゆでにならないように守ったんだ。五右衛門の心に感じ入った役人は息子を無罪放免にしたそうだ」
 父が両手を掲げる。いっしょに湯船に浸かる私の目の前に父の大きな胸があった。胸毛が濡れて貼り付いている。
「オレも釜ゆでになったら瞳子を抱き上げて守る」
 ありえもしないことを父はエラソウに言った。後でネットで見た話だが、石川五右衛門の話は諸説あるらしい。最初は父の話通りに息子を抱え上げていたが、熱さのあまり耐えきれなくなり、息子を足の下に踏み敷いたとも言われている。

 お父さんも最初は意気揚々と釜ゆでの大釜の中で私を抱え上げるだろう。でも熱さに耐えられず私を踏み敷いてしまうだろう。いや、踏み敷くことはしないかもしれない。術を使って窯から一人ドロンと消えそうな気もする。
「お父さん、どうして消えちゃったの? 私達の前から」
 そんな言葉が口を突いて出た。父はテ、テンと歩調を乱した。しかし何も言わなかった。またテンテンと歩いて行く。


 商店街に出た。人が増えたが、やはり誰にも父は見えないようだった。父は器用に人波をぬって相変わらずテンテン跳ねている。花屋の前を通った。
 シゲさんが夕べ菊の花を持ってきてくれたんだった。お礼も言っていなかった。「あ……」小さく息が漏れる。シゲさんとキスをした。父の骨壺の前で。父は見ていたんだろうか。それとも壺の中だったから気づいてないか。悪いことはしていない。そう思う。恥ずべき事はしていない。

 乳母車を押すお母さんが居た。赤ちゃんがむずかっている。父はテンと跳ねて赤ちゃんの腹にぽとんと落ちた。「へ?」と思っていると赤ちゃんがタマを握るようなそぶりを見せる。「あー」と発して笑い出した。
「赤ん坊には見えるんだってよ。霊魂って奴が。純粋だから」
 誰に聞いた話だっけ。父はポーンと跳ねて乳母車を降りるとまたテンテン先に行った。

■■7

「お父さん、待って。お腹が空いたよ」
 ボールが止まった。戻ってくる。「ここ、ここに入ろう。ここのラーメン、美味しいの」
 父はひょいと暖簾のれんを見上げたように見えた。脇に抱えた私のトートバッグの中に小器用にすとんと入ってくる。見えない誰かに独り言を言っているように見えたのか、メガネのおばちゃんがいぶかしそうに私を見た。曖昧に笑う。暖簾をくぐる。「らっしゃーい」と威勢の良い声が響いた。

 壁に掛かった時計を見るともう二時近かった。お昼時を過ぎた店内は客もまばらだ。私は四人掛けの椅子に座る。
「チャーシュー麺を」
「はい、チャーシュー一丁」
 待っている間にトートバッグの中の父に小声で話しかける。
「お父さんさ、私がラーメン作ると絶対かっぱらって食べてたよね」
 中学の頃、バトミントンの部活で忙しかった私はいつもお腹を空かせていた。母も私も映画好きで九時からは映画やドラマを観るのだが、ちょうどその頃、夕飯はがっつり食べたというのにお腹が鳴った。私はインスタントラーメンを作った。母が「太るんだから」と言うが、我慢できなかった。そのラーメンをいつも父が奪うのだ。
「一口くれ」が定番の台詞。一口食べるともう一口。三口、四口。ぜんぜん器を離さなかった。何度もそんなことがあって、「お父さん、ラーメン作るけど二つ作る? お父さんも食べる?」と台所から声をかけても、父は必ず「オレは要らん」と言った。でも、私がラーメンを食べ始めると「一口くれ」とまた言うのだ。
「お父さん、食べないって言ったじゃん」
「ケチケチすんな。もう一杯作ればいい」
「映画が始まっちゃったじゃない」
「知らん」
 出てきたチャーシュー麺を啜りながら私は「ふふふ」っと笑った。アレは一体何だったんだろう。毎度親子ゲンカになった。それでも父は「オレの分もいっしょに作ってくれ」とは決して言わないのだった。

 小バエがブーンと飛んできた。手で払う。あっちに飛んでいったハエが餃子とか担々麺とかの札の貼られた壁に止まる。チャーシューの匂いに引き寄せられるのか店内を一周してまた戻ってくる。「ダンッ」と大きな音が鳴った。私の座るテーブルの上で。びっくりした。ハエが潰れて死んでいた。父だった。トートバッグの中から飛び出した父が一撃のもとにハエを仕留めたのだ。ハエの死体が転がっている。白くて丸い父が見えなくても音だけは聞こえたらしい。店内の人がみな振り返った。
「あ、あはは、はは。ハエが居て……」
 店員さんがやってきて「すみません」とテーブルの上のハエを布巾で拭っていく。
 私が手で仕留めた、と思われただろう。どんながさつな女だと思われてるんじゃないか。カーッと頬が熱くなる。お父さんは向かいの席でコロコロと転がり、おどけているように見えた。
「もう信じらんない」独りごちた。


 店を出たところで呼び止められた。化粧っ気のない女性だった。覗き込むようにして私を見る。胸に何か紙の束を抱えている。
「あの、ちょっといいですか? 私今見えて……」
「え?」父のことだろうか。さっきのハエの。
「見えたんですか?」
 私の問いに逆に女の人はびっくりしたようだった。それでも一拍おいてコクッコクッと頷いてくる。
「えぇえぇ、あなたにもお分かりなのね。あなたの額にぱあっと光が。輝いて。あなた人生の転機ですよ」ずいっと顔が迫ってきた。
「ち、ちょっと」
 宗教だ。この辺でよく勧誘をしている。ボールが見えてるんじゃなかったんだ。しくじった。
「あなたの為に祈らせていただけませんか? 大丈夫。あなたの道は開けます」
「いえ、私は……」
「ほんの短い時間ですから……あうっ」
 宗教の人が額を押さえてのけ反った。父がいきなり頭突きしたのだ。
「い、今のはなに?」キョロキョロと辺りを見回す。お父さん、ナイス。私は笑う。
「あはは、あなたも転機ですよ。今、額にご神託を感じたでしょ?」
「え、え?」
「あなたはあなたの為に祈るべきね。私はいいわ。父が逃げろって言ってるから」
 父は走り出していた。人波を器用にぬって跳ねていく。父を追って私も早足になる。振り返ると困惑顔の女性が立ち尽くしている。


「ねぇ、お父さん。人生の転機だってさ」
 自販機で買ったジュースの缶をプシュッと開けて一口飲んで私は言う。
 公園に来ていた。ブランコに座って、離れたところで遊ぶ子ども達を見ている。父はトートバッグの中から跳ね出てくると、隣のブランコの上で小さくテンテンしている。
「不思議だね。すっかり忘れたと思ってたのに、いろいろ思い出しちゃう」
 ジュースの缶には緑色に白い字で「くりぃむそーだ」と書かれている。また思い出す。私の絵が優秀賞を貰った時だ。父が「瞳子」と私を呼んだ。顎をくいっとやって付いてくるように促す。
 なぜか早足で歩いて行く父を追って小走りになった。どこに行くのかと思っていたら、近所の喫茶店に父は入った。父のよく行く茶店だったが、私は一度も来たことがなかった。カウンターの椅子が高かった。私は足を所在なくぶらぶらとさせていた。

「コーヒーとクリームソーダ」
 赤くて丸いビニール張りの椅子に座る私の前にソーダが置かれた。
 初めてクリームソーダを見た。いや、ファミリーレストランなんかでメニューに載っている写真を見たことはあった。でも父も母もこういうものは飲ませてくれたことが一度もなかったのだ。
「……シュワシュワしてる」
「長い柄の匙があるだろ? アイスはそれで食べるんだ」
 柄の長い匙も初めて持った。あのクリームソーダは美味しかった。クリームを匙で付くと緑色の液体の中に沈んでしまう。上手く救えない。それでもあのクリームソーダは美味しかった。
帰り道「お母さんには言うなよ」と父は言って、あの日、私はクリームソーダが贅沢品だから母に内緒なんだと、そう思った。母にはずっと言わなかった。でも、違ったのかもしれない。父は照れていたのではないか。

 滑り台で遊ぶ子ども達の歓声が聞こえる。秋の日はつるべ落とし。そろそろ日が暮れてくる。キィーキィーっとブランコを揺らす。河川敷まであと少しだった。ボールになった父を河に投げ捨ててやろうと思っていた気持ちがいつしかしぼんでいた。
「ねぇ、お父さん。お父さんの忌引きで私明日も休みなの。お母さんのお墓参りに行こうか」
 父は変わらず答えない。

■■8

 すっかり暗くなってしまった。肌寒くなってきた。シゲさんが「こんな日は熱燗だよ、そろそろね」と言う季節と時刻。
「お父さん、飲みに行こう」
 父がテテンと鳴る。
「お父さんに似てお酒強いんだよ、私」くふんと笑う。父がテンテン付いてくる。

 広い河川敷の橋を渡る。風が吹き抜けて、私はトートバッグから薄手のストールを取り出した。巻き付ける。昼と違った顔になる夜の町。赤提灯が点々と灯っている。そのうちの一件に私は入った。シゲさんと時折行く飲み屋だった。
「熱燗と、揚げ出し豆腐と……。あと焼酎のお湯割りも下さい」
「お待ち合わせですか?」
「いえ、もう居るの」
 店員が解せない顔をする。
「とにかく、熱燗とお湯割り。お願い」
 お通しが出てくる。冷や奴だった。豆腐が被ってしまった。本日オススメのぶりの照り焼きを追加注文する。

 お酒が来た。私は向かいの席にそっとお湯割りを置いた。父はテーブルでコロコロしている。
「お父さん、乾杯」
 私は手酌で徳利からお酒をよそうと猪口を目の高さにあげた。父がその高さにテンと跳ねた。コップの縁にちょんと飛び乗る。焼酎が減っていく。どういう仕組みか分からないが、そういやこのタマしいは分からないことばっかりなんだった、と思い直す。どうでもいいや。どうでもいい。お父さんが居て、いっしょにお酒を飲んでるんだから。
「すみませーん、もう一杯下さーい」
「はい、ただいまー」
 結構いける口だった母と大酒飲みの父は時折夜更けまで飲んでいた。ぼそぼそと何事かおしゃべりしながらたまに笑い声が混じる。遅くまで楽しそうだった。私が入る余地のない空間だった。私は一人布団の中で羨ましいなと思っていた。


 河川敷に戻ってきた。私は沢山飲んだ。父も飲んだ。父はテテンテテテンと千鳥足だ。
 私はススキの生える土手に体育座りした。ロングスカートの下、それでも足が葉に当たってチクチクする。父はテーンテーンと飛んで行って、土手を下り原っぱを大きく丸く回った。酔うと父はよく歌を歌った。今も歌っているのかもしれない。
 はーるの うららの すみだがわ のーぼりくだーりーの ふーなびーとーがー
 夏でも冬でもこの歌だった。母が居ると低音部を歌って、ハモって二重奏になった。私は酔った父が好きだった。この歌が好きだった。

「お父さーん」
 手をラッパにして私は呼んだ。
「お父さーん、寒いよ。もうかえろー」
 思いがけず。父はポーンと飛んだ。高かった。真っ直ぐに空に飛んだ。そのまま。降りてこない。私は慌てて立ち上がると、父の真下まで転びそうになりながら降りていく。降りていっても、父は落ちては来なかった。そのうちすぅっと白の色が透ける。透けていく。
「お父さん!」
 タマしいはじわじわとシャボン玉みたいに透明になって鈍く七色に光りながら空へ空へと登っていく。「行かないで!」そう言おうとした言葉を私は飲み込んだ。あの人はやっぱり唐突にふつりと行ってしまう人なんだ。また行ってしまうんだ。遠くへ。遠いところへ。ふわふわ飛んで、薄れていって、そしてとうとう見えなくなった。


 携帯が鳴った。シゲさんだった。体が動いて無意識に出た。
「瞳子ちゃん、どこ行ってるんだ? こんな夜更けに鍵も掛けねぇで……」
「シゲさん、シゲさん」私は言う。ぶわっと思いが溢れ出た。今日一日と今までの父との思い出が走馬燈のように頭の中をぐるぐると駆け巡る。なぜ父が出て行ったのか、去ってしまったのかをとうとう聴けずじまいだった。身勝手な人だった。非道い父親。
「お父さんが行っちゃった、死んじゃった。死んじゃったんだよぅぅ」
「瞳子ちゃん、瞳子ちゃん……」
 月が出ていた。白くてまぁるい月だった。お父さんみたいな月だった。涙に滲んで瞳をこらそうとしてもそれも見えない。
「また独りぼっちになっちゃったよぅ。お父さんが死んじゃったんだよぅぅ」
 河川敷に私の声が響く。さーっと風が吹き抜けた。寒空の下、私は独り泣いていた。「お母さーん」と泣いたり「お父さーん」と泣いたり。私は小さな子どもの頃に返っていた。不思議なほど涙が溢れて止まらなかった。鼻水を垂らしながら泣きじゃくる。
「河川敷ぃー。河川敷にいるの。シゲさん。迎えに来てぇー。独りぼっちはもうイヤだよぉぉ」
 シゲさんが携帯を握ったまま迎えに来るまで。私はわぁわぁ泣いていた。

■■エピローグ

 ワクワクの電話が鳴った。取ると叔父だった。新居の窓からは桜の花が見える。風にひらひらと花びらが散っている。
「瞳子ちゃんが骨、引き取ったんだってな。……すまなかったな。一人で行かせて。何しろ兄さんには色々と……」
「分かってます。叔父さん」
 叔父は黙った。叔父さんの言い分も分かる。ちゃらんぽらんな父だった。頼りがいがない、薄っぺらな人だった。「それでもね」母が時々口にした言葉。「悪い人じゃあなかったわ」

「叔父さん、私結婚したの。四十八歳のバツイチ子持ちの男の人と」
 叔父の動揺が受話器の向こうから見て取れる。自然と口角が上がった。
「いい人なの」
 私は少し膨らみ始めたお腹にそっと手をあてた。

 END--------------------------  タマしい




■■後書き

 7年ぶり(掌編も入れれば4年ぶり)の新作です。書き込み寺企画・第5回 テーマは「白」の時に考えていたネタなんです。2003年だったからもう15年経っています。当時序盤は書けたのですがその後が続かず、ずっとお蔵入りになっていました。口惜しく思っていましたが、今だから書けるようになった話かもしれません。月日が経つってそういうことかもしれませんね。

  行き詰まっていたら、ダンナが「ロードムービーにしてみな」と言いました。む、難しい。普通のロードムービーと違って町内散歩の小さな小さなロードムービーです。でも、それで話が転がったんです。ダンナちゃん、ありがと。

 ちょこっとでもお気に召して頂けたなら良いのですが。たったひと言でも結構ですんで、ゼヒ感想を頂けましたら幸いです m(_ _)m


宇苅つい拝



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↑ ランキング云々とは無縁な個人仕様。小説書きの活力源です。お名前なども入れて下さると喜ぶにょ


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