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 TOP小説COLOR>「寄セテハ返ス」




「 寄セテハ返ス 」

■■プロローグ

 たぽん… と水音を撥ねさせて、陽子が僕へと腕を伸ばす。
 水の中の彼女は、とてもキレイだ。僕はその腕に吸い寄せられるように、バスタブの中の彼女の裸身を抱きしめる。濡れた頬にキスをする。

「陽子、寒くはない?」
「ううん、ちっとも。とってもとっても良い気持ち…」

 白い小さなタイルで敷き詰められた、広い贅沢な作りのバスルーム。その真ん中に添えられた、西洋式の陶器で出来たバスタブは、陽子のほっそりとした長い足をゆったりと伸ばして入れられるだけの充分なゆとりがあった。金色のしゃれた猫足のついたバスタブの中で、陽子は幸福そうに「うふふ…」 と微笑う。僕も彼女に微笑み返す。

 バスルームの天井には、青い透明な光が揺らぎながら満ちていた。
 そういう海面の様子を模した<癒し>の為の光を彼女に買って来てあげた時、彼女はうっとりと夢見るようにつぶやいたものだ。
「わあ… まるでほんとうの海の中に居るみたい…」 と。

 僕は陽子の為にCDデッキのスイッチも入れる。
 寄せては返す静かな静かな波の音が、小さなタイルの一つ一つにぶつかって木霊する。

 室内の温度を暖かく保つためのヒーターのスイッチも忘れずにセットしておいて。
 僕は、陽子に「じゃあ、行ってくるからね」 と言う。
 二人でもう一度キスを交わして、微笑み合って。僕は名残惜しい心持ちで、バスルームのドアを閉じる。

 ガラス張りのドアの中から、陽子が「行ってらっしゃい」 と小さく手を振る。その姿が室内の蒸気に白くぼやけて、滲んでいく。

 こうして、僕が作った<海>の中で、陽子は僕の帰りを待つのだ。
 いつか人魚になる日まで……。

■■1

 僕が陽子と出会ったのは、夏の初めのことだった。
 ゼミの仲間に捕まって酒を飲んだ帰り道、終バスを逃してしまった僕は、ぶらぶらとそぞろ歩きを楽しんでいた。なに、歩くと言ってもせいぜいが停留所五つ・六つ分くらいのものだ。酔い覚ましにはちょうど良かったし、待つ者もないマンションへ急いで帰る理由もなかった。

 月のキレイな夜だった。
 三日月の細い槍の先からポタンと金の雫が滴り落ちそうな、そんな夜。
 パシャンと何処かで水音が撥ねた。

 月の雫が落ちたかな? そんな莫迦もあるまいに…
 僕は自分の想像が可笑おかしく思えて、ちょっと笑った。成人式も既に済ませた立派な大人の僕なのに、メルヘンの世界はもう似つかわしくないだろう。

 パシャンと、またひとつ水音が聞こえた。今度はさっきよりもはっきりと。
 こんな夜更けに何なんだろう?
 車の往来を避けて裏道をくるくる歩いて来たので、住んでいるマンションの近所とは言いながらも、僕はこの辺りの地理に疎かった。

 高いブロック塀で囲まれた、広い敷地。角を曲がってみると、鉄棒や登り棒のあるグラウンドが見えた。
 なるほど。この灰色の建物は小学校だったのか、と合点がいく。グラウンドに入っていくと、今まで角度的に見えてなかった時計台も見えてきた。
 そういえば、僕が通った小学校でも中学校でも、高校でも大学でも。学校と名前の付くものにはみんな、建物の外壁の何処かしらにはアレに似た、丸い時計が嵌め込まれていたことを思い出す。学生や子どもは時間に縛られなくてイイ、なんて訳知り顔の大人は言うが、案外子どもの方が時間の制約の中に居るのかもな…とそう思う。

 深夜の小学校は静かだった。細い月明かりに登り棒の影が薄く長く伸びている。日中は子どもたちの笑い声や駆け足で走る靴音が絶えないのだろうに、今はシンと静まって、ただ夜が明けるのを待っている。水音のした場所は、校舎の方角に少し戻った所だった筈だ。僕はそちらの方へと、ゆるいコンクリの坂を登っていった。

 横目に映る校舎の様子は、グラウンドにも増してもっと薄気味悪かった。多分アレは非常灯の明かりだろう。警報機の赤や非常口を示す緑のランプ。それらが無機質に並ぶ同じ形をしたガラス窓の向こうで、鈍色にびいろの光を投げている。生暖かい風が校舎の間を吹きぬけた。

 僕は、こんな所まで入り込んでしまったことをそろそろ後悔し始めていた。戻ろうか、と思ったその時。
 チャプン… トプン… と続けざまに水音が響いた。

 もう少し先の、金網で囲まれた場所。小学校だったらある筈で、でも、今のこんな時間に水音が響くのにはかなりに不似合いな筈の、その場所。

 小学校のプールの中に泳ぐ女の姿があった。


 僕は、はっきり言って驚いていた。
 こんな夜更けの、人気もない小学校のプールなんかで泳いでいる人が居るだけでも不思議だが、更にそれが僕とは年齢も変わらないくらいの若い女の子で、更に更に、彼女が一糸も纏わぬ裸身で泳いでいたのだから、それも無理はないことと思う。

 月の光はルナティックだと言うけれど、まさしく常軌を逸した気分だった。しなやかに伸ばされる細い腕が水面を弾き、その飛沫がキラキラと星屑のようにきらめく。僕は無意識の内にふらふらとプールサイドに引き寄せられて行った。月明かりの中、白い裸身が水と共に戯れる。

「何してるの?」
 我ながら間抜けな台詞だったな、と今になっても思うのだけれど、僕はそう彼女に問いかけた。
 彼女は僕の声に、プールサイドを見上げ、そして、うふふ… っと笑った。
「あなたも泳がない? 気持ちいいわよ、とっても」

 彼女は今度は仰向けになると、背泳ぎになってパシャパシャと軽くバタ足をした。
 まろいふたつの膨らみが水面からふっくらとそこだけを覗かせていて、その丘の間から柔らかな笑みを浮かべる口元が見え隠れする。

 まるで、夢の中にいるみたいだった。キレイだ… と僕は思った。彼女の動きを忠実に辿って、水面にすぅーっと透明な軌跡が描き出される。長い黒髪がやわやわとその後を追う。白い肌が淡い光沢を帯びて、滲むように輝きを増す。

 月の女神か水の妖精だかが、現世に現れ出でたのか、と思ったけれど、僕の足元には彼女の物であろう小さな花柄のついた服やサンダルがきちんと揃えて置かれていて、その安っぽい柄の布地に少しばかりほっとした。やっぱり人間だったか、とちょっと残念にも思えた。

「何してるの?」 僕はもう一度聞いてみた。
「こうやって、水の中に居ると幸せになれるの」
「泳ぐことが好きなの?」
「ええ、とってもとっても好きよ」
「きみは……」 誰? そう僕が尋ねようとしたその時。

 急に明るすぎる光線の輪が、僕らを捕らえた。
「こら! そこで何をしている!?」
 学校の、恐らくは守衛だろう。暗がりに慣れた目に懐中電灯の強烈な光を浴びせられて、僕は視界と思考がグラグラした。

「きゃっ!」
 そう小さく叫んで、彼女はとぷん、と水中に潜った。そのまま泳いで反対側の岸の方に逃げていく。
「あ、ちょっと、きみ。コレ、服は!?」
 僕は慌てて、彼女の衣服を掻き集めた。それを両手に抱えて、プールサイドを走り出す。


 守衛の声が追ってくる。
 僕は水を含んだ裸足の足跡が向かう方へと、プールサイドを大回りして懸命に走った。
 金網を出て、ブロック塀とその脇の灌木かんぼくの間をぬうように走る。ようやく追いついて追い越して。僕は彼女の手を取った。彼女が掴まれた腕と僕の顔をちらっと見る。僕は彼女の手を引いて、物置らしい小さな小屋と伸びた雑草との影に身を潜めた。人差し指を唇に当てて、「静かに!」 という合図を送る。白い肌は夜目に目立つように思えたので、僕の身体で覆い隠すようにしてしゃがみ込む。

 はあはあはあ…
 彼女の早い息遣いが聞こえた。僕の心臓のドキドキという音も。

 守衛は、深追いしては来ないようだった。バカな若い酔っ払いたちがハメを外した。その程度に思ったのかも知れない。或いはあまり仕事熱心なタイプではなかったのかもしれない。しばらくして、僕はゆっくりと立ち上がった。
「大丈夫みたいだね」
 彼女もそっと立ち上がる。

「ありがとう」
「え?」
「服…」
「あ! ああ、そう。服!」

 裸の女の子と、抱き合わんばかりの体勢だったことに、今更のように気づいて、僕は慌てた。回れ右して、固く固く目を閉じる。自慢じゃないが、裸の女の子なんてその手の写真かビデオの中でしか、僕は見た事がなかったのだ。

 真っ赤になった僕の後ろで、くすっと笑う気配がした。



 服はきちんと着たものの、彼女の足は膝の少し上辺りまでが泥だらけだったし、未だ雫のポタポタ落ちる髪の毛には木や草の葉が沢山くっ付いていたしで、到底 「じゃあ、ここでさようなら」 なんて言える感じには見えなかった。だからと言って、プールや校舎まで戻るのは、あの守衛さんに見つかりそうな気がしたし。

 僕は仕方なく、彼女を自分のマンションに連れ帰ることにしたのだった。

■■2

「どうして、あんな所で泳いでいたの?」
「だって、水の中が恋しくて恋しくて、堪らなくなったんですもの」
 マンションへ向かう夜更けの道。名前を陽子だと教えてくれた彼女はそう言って、ふふ… っと笑った。

 陽子はアスファルトの道を水の中と同じように、滑るように軽やかに歩く。僕の数歩前を歩いたり、かと思えばいつの間にか後ろの方に下がっていたり。なんだか、捕らえどころのないニンフのようで、僕は彼女から目が離せない。

「あのね、私、人魚なの」
「え? なに?」
「人魚。マーメイドの人魚」
「ああ、分かった」
 実際は、ちっとも解っちゃいなかったんだけど、僕はしきりに頷いてみせた。彼女の声は水の音みたいに、涼やかで透明だった。ずっと聞いていたい、と思った。

「私はもうじき<メタモルフォーゼ(変身>するの。私の足は退化して、そしてそこからキレイなピンク色の鱗を持った尾びれが生えてくるんだわ。私は人魚に生まれ変わるの…」

 そうしたら、やっと、故郷の海へ戻れるのよ 
 彼女はまた、謳うように うふふ… っと笑った。月の光が笑ったような微笑だった。怖いくらいにキレイで、無邪気な表情かおだった。

「きみの故郷は海なんだ」 僕は彼女に話を合わせた。合わせるべきだと、そう思った。
「そうよ。海で生まれたの。私ね、赤ちゃんの時に拾われた子なの」
「え?」
 月明かりの鈍いスポットライトを浴びながら、陽子はそこでくるんと一回転した。髪の毛から放たれた雫が幾つかアスファルトに点々と跡を残す。

「浜辺に壊れたボートが捨てられててね、私、その中で泣いていたんですって。
 もろく朽ちかけたボートの中は一面、血の海だったそうよ。その真紅の海の中で泣いていた生まれたばかりの、まだへその緒も付いたままだった赤ちゃんの成長した姿が、今の私」

 僕は何と答えていいのか分からずにいた。彼女がほんとうを言っているのか、それともおとぎ話をしているのか、判断がつかなかったのだ。

「残された血の量から考えても、私のお母さんは絶対に私をそのボートの中で産み落とした筈で、それなのに不思議なことに、ボートの周りにも浜辺にも、全く誰の足跡もなかったのですって。不思議なお話でしょう?」
 陽子が軽く小首を傾げてみせる。 「あなた、信じる?」 と聞いているみたいだった。

「だから、みんなは私のことを海からやって来た人魚が産み落とした子じゃないか? って噂したの。私もね、きっとそうだって思ったわ」
「それはどうして?」
「だって私、水の中に居るのが一番一番好きなんですもの。水の中に居ないとね、乾いてかつえて死んでしまいそうな気持ちになるの…。だんだん少しずつ少しずつ渇きが強くなって行くわ。もうじきメタモルフォーゼして人間の私は居なくなる。 …あなたは人魚を見たことがある?」

「いいや」 僕の喉も渇くのを感じた。ひどくカラカラに乾くのを感じた。それでも彼女から目が離せない。
「じゃあ、あなたが傍で見ていて。そうして私が人魚になったらその時には…」

 『私を故郷の海に帰して』

 陽子の瞳は真剣だった。僕はゴクリと唾液を飲み込んだ。嚥下される生ぬるい液体を喉の奥底に痛いほどに感じながら、僕は 「分かった」 と応えたのだった。


 仕方なく連れ帰った、というのは間違いだ。
 僕は本当は陽子を帰したくなかったのだ。あの夜、あの時、あの場所で、僕は彼女に恋をしたから。


 僕は、もうずっとこのマンションに一人きりで暮らしていた。大学の入学祝いにマンションをひとつ、ポンと買って貰った。そう聞けば、他人の耳にはいかにも豪勢に聞こえるかもしれない。父親は、地元ではかなり名の知れた総合病院の院長で、僕はそこの長男坊だ。そう言えば、ブルジョアなお坊ちゃんと映るかも知れない。
 実際、このマンションは学生が一人で住むには贅沢すぎる作りだし、月々送金されてくる仕送りも、僕が毎日飲んだくれてバカ騒ぎをしたからって、そうそう無くなる金額でもなかった。

 でも、僕は決して幸せではなかった。満たされてもいなかった。
 僕が中学生の時、長く患っていた母が逝った。父は間もなく後妻をめとった。僕とたった七つしか歳の離れていない、父の病院で看護婦をしていた女だった。父は自分の半分の歳しかない若い女を新しい妻に迎えたのだ。二人は子宝にも恵まれた。現在僕には、五歳、四歳、一歳と冗談みたいに歳の離れた腹違いの弟妹が三人も居る。

 新しい母親がイヤな女だとは言わない。長く続いた母の看病やいろんなことに疲れていただろう父には、きっとこれが最良の選択だったのだ。僕はもう小さな子どもではなかったし、父には父の人生がある。それは分かっていたつもりだった。
 弟妹たちも 「大兄ちゃん、大兄ちゃん」 とみんなで僕を慕ってくれる。穏やかで笑い声の溢れる温かな家庭。でも、義母の腹が膨らむたびに、僕は家の中で強い孤独を感じるようになった。大きな家族の輪の中で、僕だけが余計な突起物だった。大きなできもののようだった。
 そして、ちょうどその頃、僕は父の病院で、看護婦たちの噂話を耳にしたのだ。

 『院長先生が前の奥様に延命措置を取らなかったのは、早く今の奥様と結婚したかったからよね』
 『あの女も上手くやったもんよね。奥様付きのお気に入りの看護婦だったクセに、良心は咎めないのかしらねぇ』

 延命措置を施したからといって、それは僅かばかりを永らえるだけの、既に定められた母の命であった筈だ。母の苦しみをいたずらに長引かせるだけであったに違いない。それは僕にも解っていた。
 でも、それを耳にした時、僕は自分の中で何かが崩壊する音を聞いたのだ。

「家を出たい」
 そう申し出た僕に、父は取り立てて何も言わなかった。どこかしらほっとしているように見えたのは、僕の心の作り出した勝手な妄想だっただろうか。進む大学が決まり、それに合わせてマンションの権利書を渡された。手切れ金、という言葉が頭の中に浮かんで、妙に可笑しくてならなかった。



「お父さんやお母さんに会いに行かないの?」 陽子は時々、こんなことを尋ねてくる。
「陽子と居るほうがずっといい」 僕は決まってこう答える。

陽子だけが僕の全てだ。彼女だけが僕を必要としてくれる。彼女が傍に居てくれるなら、僕は他に何も要らない。


 あの夜、あの時、あの場所で、僕は陽子に恋をした。
 この感情をどう言い表せば良いのだろう? きっと百万の言葉を繋ぎ合わせても、表現なんて出来やしない。きっと、あの夜の月の光が僕に魔法をかけたのだ。いや。呪文を唱えたのは、いつか人魚になる陽子だったのかもしれない。

 陽子は僕のマンションにある猫足付きの西洋風のバスタブがとっても気に入ったようだった。 「ステキ、ステキ」 と繰り返す。はしゃいで僕にも水をかける。
 僕たちは子どものように水の中で戯れた。まるで生まれながらの恋人同士のように、何度も何度もキスをする。そうして遊び疲れたら、お互いの体温を分け与え合って、安らかな眠りに落ちるのだった。


 陽子のことを<異常>だと、そう思う人も居るだろう。彼女を然るべき医者に診せ、「そんな妄想を抱くのは止めなさい」 と言うのが正しいのだと、それこそがほんとうの愛情なのだと、そう言う人は多いだろう。

 でも…、と僕は思う。陽子は自分の母親を人魚だと信じていて、だからこそ自分もいつか人魚に生まれ変わるのだ、との、その思いに執着している。だが、それは彼女にとっての最後の精神こころの砦ではないか、と思うのだ。

 生まれてすぐに、母親に捨てられてしまった悲しい生い立ちの子・陽子。でも、彼女の母親が人間ではなく、人魚だったのだとしたら、それは鱗を供えた尾びれではなく、二本の足を持って生まれてしまった我が子を断腸の思いで陸に置いて行かざるをえなかった…、という正当な理由になるではないか。自分は決して親から<要らないもの><邪魔なもの>として捨てられたのではないのだ。その思いだけを頼りに、今まで彼女は生きてきたのではないだろうか。

 そう陽子が考えたとして、誰に彼女を咎める権利があるだろう。真実を知ることだけが人の幸福だなんて、僕は決して思わない。歪めた虚構の中でしか幸せを見つけることができない人だって、この世にはきっと沢山居る筈だ。そして、自分の存在が<不要なもの>と呼ばれること。それがどれほど、哀しく切なく苦しいものか、それを僕は知っていた。

 自分が今まで立っていた筈の大地がガラガラと崩れ落ちるような絶望と、突然天も地もない真っ暗な空間にたった一人ぼっちで放り出されてしまったような孤独感や頼りなさ。あんな苦しみの中に彼女を突き落とすことなんて、僕には出来る筈もない。
「現実と対峙し、いつも真実を直視しろ」 なんて、そんなのは幸せで愚かなる<強者>の台詞でしかないのだから。


 だから。僕はただ毎日を、陽子がそうと望むように、彼女が幸せでいられるように… そう考えて暮らしている。そうして、陽子が笑ってくれることだけが、僕の幸せでもあるのだった。

■■3

 陽子はほんとうに水の中が大好きだ。だから、毎日のほとんどをバスルームの中で過ごしている。
 僕が大学に行っている間、彼女に退屈をさせないように。僕はTVもビデオデッキも、本も雑誌も、何もかも。全部を風呂場に持ち込んだ。

 TVはアンテナ線を繋ぐ事が出来なかったけど、それは逆に幸いだった。彼女の心はとても繊細で傷つきやすいから。余計な世間の悲しい事や、苦しい事、辛い事や切ない事で、惑わせたりはしたくなかった。だから、僕は子供向けの楽しいアニメや、優しい気持ちになれる環境ビデオを慎重に選んで見せてあげる。

 彼女の一番のお気に入りビデオは、やっぱり海の映像だった。だって、海は彼女の故郷だったから。

 学校が終わって、大急ぎで帰ってくると、僕はまず一番に陽子の元に駆けつける。衣服を脱ぎ捨てるのももどかしく、陽子の身体をバスタブの海から僕の腕へと掬い上げる。

 そうして、僕たちは真っ白なシーツの海の中へとダイビングし、僕はひんやりとした陽子の肌を温める作業に没頭する。陽子という海の中に深く深く潜り込むと、彼女の細い指先がシーツに幾つもの波紋を描く。

 とてもキレイで、とても幸せで。僕は満ち足りた気持ちになる。
 僕は陽子を愛していた。
 誰よりも、何よりも、陽子だけを愛していた。


 ベットの傍らで無心に眠る陽子の寝息を妨げないように気遣いながら、僕はゆっくりと身体を起こした。なんだか、無性に喉が渇く。毎晩陽子の隣で彼女を抱いて眠りながら、僕は海の夢を視る。青い青い水底に沈んでいく僕たち二人の夢を視る。

 陽子の長い髪の毛は、まだ幾分湿り気を残していて、その湿った匂いが僕に夢の世界を思い出させる。こんな奇妙な生活が、一体何時から始まったんだったか。たった数日前からのような気もするし、もう何年も経ってしまっているようにも思える。

 陽子と初めて出会ったあの夜。あの時の彼女を思い出す。彼女の柔らかな肢体が水を弾くさまと、あの日の微笑を思い出す。

 僕は少し、疲れているのかもしれなかった。疲れて、迷っているのかもしれなかった。
 迷いは人を気弱にさせる。先に進む事が怖くなった時に、人は昔を思うものなのかもしれない。もう、決して変わることの無い過去。そのことを思うのは、未来を窺うよりも、ずっと楽だ。

 歩いて来た道は一本きりで、進む道は現在いまから無数に枝分かれしている。その中から一本を選ぶと、それはすぐに過去の道と結合されて、もう後戻りは出来なくなる。

 僕は沢山の未来に向かう道の中で、陽子の為になる道を選んで歩まなければならない。失敗は決して許されない。僕は決して間違わない。
 きっと、きっと、陽子を幸せにしてあげるのだ。僕の愛しい、愛しい陽子。きみがずっと良いように。きみの心の望むままに。


 眠る陽子をそのままに、僕は遅くなってしまった夕飯の支度をする為に起き上がった。もう、窓の外は夜の景色だ。窓の下を車がクラクションを鳴らしながら行き過ぎていく。

 献立は簡単に出来るリゾットにしようと思う。僕が材料を切っていると、目を覚ましたらしい陽子が寝室から声をかけて来た。
「私も手伝うわ。その人参、すりおろすんでしょう?」
「いいんだよ、僕がやるから。陽子は座って待っていて」

 僕は陽子の為にダイニングの椅子を引いてやる。陽子をベットから抱き上げて、そしてそっと座らせてやった。少し前から、陽子は歩く事が困難になってきていた。ずっと水の中に居て、ほとんど歩くことをしないからだ。彼女の身体は少しずつ少しずつ弱り始めていた。それが分かっているのに、僕はそんな陽子をただ見つめ続けるだけだ。
 何故なんだろう? 陽子がそれを望むから? 陽子を何処にもやりたくないから? 今のこの日々を失いたくないから? それとも… それとも… 上手く言い表す事が出来そうにない。


 チーズと細かく刻んだ野菜をふんだんに使ったリゾットを二人で食べる。

「ねぇ…」
 彼女が聞いた。いつも尋ねる問いだった。

「ねぇ、私の身体、何時になったらメタモルフォーゼするのかしら?」
「まだ、早いよ」
「そう、思う?」
「うん。まだ早いと思う。陽子はこのままで、まだいいんだよ」
「そうね…」 陽子が小さく、ため息をつく。

「ねぇ。私、お水の中に戻りたいわ」
「ダメだよ、もう今日は。また明日にしようね」

 僕は立ち上がって、食べ終わった食器を片し始める。陽子はそれ以上、何も言わなかった。
 皿を拭いて手伝ってくれる彼女の為に、椅子を流しの傍まで運んで来てやる。陽子はそれに座って皿を拭く。一枚一枚丁寧に。

「これが終わったら、いっしょに海のビデオを観よう。イルカが沢山出てくるビデオを見つけたんだよ」
 陽子の表情が、途端にぱっと明るくなる。

 このままの陽子がいい。僕はそう思った。そして、ほんの少しだけ切なくなった。
 海のビデオを見つめる陽子に、沢山沢山キスをした。

■■4

 最近は学校に行くこともまれになってしまった僕に、陽子は心配そうな顔をする。
 僕は「平気だよ」 と笑い返す。
 陽子といっしょに居る今この時が、僕には何より愛おしい。他のことなど、どうでも良かった。


 陽子が水から上がることを嫌がったので、今日の夕食はバスルームで食べることになった。
 バスタブに板を渡して(これは陽子が普段本を読みたい時にも使う)、そこに陽子の好物の海草サラダや、コーンスープ。そして小さめにこしらえたハンバーグを置いてあげる。

 少しずつ少しずつ、陽子が水の中で過ごす時間が増えてきていた。
 水に浸かり過ぎて、白い肌が更に白くふやけている。指の腹がしわしわで、フォークが使いにくそうだった。
 サラダばっかり食べているので、「お肉も食べて」 と注意したら、可愛らしい唇を更に可愛くとがらせて、「ムーッ」 と言った。二人で笑う。

「ねぇ、私の身体、何時になったらメタモルフォーゼするのかしら?」
「きっと、ゆっくりゆっくりだよ」
「うん…」
「ほら、もっと沢山食べて。メタモルフォーゼするには、いっぱい栄養が必要だよ。解るだろう?」

「ねぇ…」
「なんだい?」
「私、海に行きたいな」
「もう少し、上手く歩けるようになったらね。そうしたら連れて行ってあげるから」

 そう言った途端。陽子は、不思議そうな顔をして僕を見た。
「歩く? どうして? もうすぐこの足はキレイな尾びれに変わるのに」

 僕はその一瞬、息が詰まった。そうだった。陽子はもう大地を歩くことなんて必要としてはいないのだ。彼女の望みはただひとつだけ。ああ… それは。 とっさに返す言葉が見つけられない。

 綺麗な黒い瞳が僕の瞳を覗き込む。
「どうしたの? ねぇ… どうして泣いているの? 悲しいの?」
「違うよ」 僕は大急ぎで言葉を繋いだ。

「君といっしょで、幸せだと思ったんだ。陽子とずっといっしょに居たいと思ったんだよ」
「私もあなたが大好きよ」
「じゃあ…」 僕は彼女を見つめ返した。涙が溢れそうになるのを堪えながら見つめ返した。

「ずっとずっと二人で居よう。変わっていくことを、どうか急がないでくれ…!」
「私もあなたと居たいけれど… だって、それは仕方のないことだわ」

 だって、私は人魚の娘なんですもの
 陽子はそう言って微笑んだ。天井を照らす光より、青く透明な微笑みだった。


 日増しに陽子の身体が弱っていくのが僕には分かった。
 陽子の生命はバスタブの水の中にどんどん、どんどん溶け出していく。

 細い手足が更に細り、唇や頬の赤みも失われた。息遣いは細く、時には苦しげにひゅうひゅうと悪い音をたてる。水に体温を奪われて、手足は冷たく凍えているのに、胸や額はほつほつと、いつも熱を含んで熱かった。もう、固形物どころか、軟らかいものでさえ、上手くは飲み込めなくなってきていた。

 陽子の命が流れていく。愛しいものが去ろうとしている。

「ねぇ…」 陽子が僕を呼んだ。
 ひゅう、と喉が鳴って、弱々しく咳をする。それなのに。それでも変わらず陽子は幸福そうだった。
「今までちっとも思いつかなかったのだけれど、人魚って…肺では呼吸をしないのかも知れないわよね? だから少ぅし苦しいんだわ…」  と、そんな風に言って微笑む。

「ねぇ…あの夜のことを覚えてる? あの月…のとってもキレイだった夜、私はあなたに恋をしたわ。あの時のあなたの腕、とってもとっても温かくて…ほっとしたの。あなたなら、きっと私のこと、解ってくれるって感じたの。私が変わっていく姿を…ずっと見守っていてくれるって、そう…私、信じた、の…」

 陽子が僕へとその腕を差し伸べる。出会いの時と同じように、水の雫を纏う指先。陽子は今日もバスタブの海で淡くたゆたう。

「うん…」 指を絡めて僕は言う。
「きみをずっと見つめているよ」 指先の一本一本にキスをしながら僕は言う。


 陽子の微笑みは、まるで水と同化するかのように透明度を増して行く。
 それが僕には神々しいとさえ思えるのだった。もう、陽子の変化を止めることなんて決して誰にも出来やしない。きっとこれは始めから定められたことだったのだ。

 始まりが何だったのか? なんて、僕は知らない。
 僕が陽子と出合った時から始まったのかも知れないし、若しくは陽子がこの世に産み落とされた朝に、唐突に決められた事だったのかもしれない。

 きっと、浜に打ち寄せる大波や小波が太古の昔から途切れることのなかったように、脈々と連綿と繋がってきた運命の連鎖が、そうと定めたことだったのだろう。陽子は、もうじき海に還る。生まれた場所に帰っていく。

 ずっと水の中に居てふやけ尽くした陽子の白く美しい肌は、いつしか爛れて赤黒い腫れ物に埋め尽くされていった。表皮が何度も何度も剥がれ落ちて、それがまるで鱗のように見えるようになったことは<運命の皮肉>と言うべきなのか? 陽子はそれらの変化の兆しを喜びをもって受け入れた。

 足が萎えていくことも、身体がどんどん細く儚くなっていくことも、もう一切の食べ物を受け付けなくなったことすらも…。彼女にとっては、それらの全てが<確信>だった。変わっていく自分、人魚になって広い海を泳ぐ自分の姿を夢見て、陽子は期待に胸を膨らませる。陽子は微笑う。陽子が微笑う。

「私はもうすぐ…人魚になって…故郷の海に還って行くの。海に潜るときにはきっと…人の悲しい心を抱いて行くわ。哀しいことや辛いことはみんな…私が持っていくの。そうして…深い深い海の底に沈めて、白い…きれいな砂を被せる…わ。そうしたら悲しみは無くなるの…。きっとそのために…人魚はいる…のよ」


 私、やっと解ったの…
 陽子は幸せそうに今日も微笑む。

■■エピローグ

「もう…間もなく私は…人魚になるわ…きっと…エラ呼吸になると思うから、それまでに遅れないように…海まで…行っておかなくっちゃ…あなた…連れて行ってくれるわ…ね…?」

 陽子が細い腕を伸ばす。水を纏わせた細い細い、触れれば折れてしまいそうなほどに細すぎるその腕。僕はその手をしっかりと握った。

 陽子が僕を見つめている。信じきった瞳だった。何を? 僕を? それとも自分自身を?

「ああ… そうだね。海に行こう。きみはもう人魚になったんだから…」
 陽子が幸せそうに微笑んだ。僕も幸せな思いに満たされる。そうだ。二人で海に行こう。陽子を海へ還してあげよう。


 僕は青い青い海に泳ぐ陽子の姿を夢想する。のびのびと自由に手足を伸ばし、広い海原にいだかれて、泳ぐ陽子の白い肢体が目に浮かぶ。ああ… なんてキレイなんだろう…。

 僕たちの思いは深海に深く深く沈んでいく…。哀しみも喜びもみんな一つに。深く深く、青く青く。

 僕は陽子をしっかりと胸の中に抱き寄せた。
 寄せては返す波の音が、陽子の肌から聴こえるような、そんな気がした。


 End--------------------------------------  寄セテハ返ス




■■後書き

 挫折しタ。本来は主人公の設定が別にあって、彼の子ども時代からの長〜い話になる筈だったんだけれども(登場人物もまだまだ大勢出る筈だった (^^;)、書き込み寺の企画締め切りに到底間に合いそうもなかったので、設定を大幅に変更して短くはしょってしまったんだな。

 だから、我ながらゼンゼン意味不明のつまらん話になってしもーた。
こんなもん上げてどーする?? とは思ったけども、こんなもんしか書けなかったんだから、しょーがねぇよな。  あ。企画のお題は「海」でした。
 海
 ↓
 人魚姫(アンデルセン童話の)
 ↓
 恋愛物(?)

 ……と、ここら辺までは普通な発想だと思うんですガ、
「バスタブで泳ぐ人魚」ってのは、なかなか異常な発想デス。しかも、このくだり気に入ってたのよ。何でじゃろう〜? 流石に純和風のヒノキ風呂とかじゃあ、あまりにも似合わなすぎるので、西洋風呂にしてみましたがね。  読んで下さった方、ありがとう。


 宇苅つい拝

タイトル写真素材:【NOION】



 ついでに「ひと言」下さると、尚嬉し↓

↑ ランキング云々とは無縁な個人仕様。小説書きの活力源です。お名前なども入れて下さると喜ぶにょ


よければTweetもしてやってね


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