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 TOP小説COLOR>「この子の名前」


「 この子の名前 」

 産もうか
 それとも、堕おろそうか

 この子の存在を知ってから、私はずっと考えている
 <この子>の事を考えている…

■■1

「行ってくる」
 そう言ってジャンバーの袖に手を通しながら戸口に向かう正志まさし
 私はそんな彼について行き、いつものように<いってらっしゃい>のキスをする。

「気をつけてね」
「うん」 いつものようにキスを返してくれる彼。
 でも、その日。私はそんな正志の表情に小さな衝撃を受けたのだ。


 ああ。この人は疲れた顔をするようになった……。


「ねえ、私もう少し稼ぎのいいトコに勤めようか?」
「なんだよ。突然」
「……」
「ダメだぞ。おミズは。
 オマエは俺の嫁さんになるんだから。俺は嫁さんをそんなトコで働かせるような男じゃないんだから」

「でも、正志、仕事キツイでしょう」
「金は確かにキビシイけどさ、何とかなるって。何とかするさ。だから心配すんなよ」
「……」
「とにかく、行ってくっから。俺頑張るからさ、大丈夫だからさ」

 正志はそのまま慌しく出て行って、私はため息と一緒にドアを閉めた。

■■2

 私と正志が同棲を始めてもうすぐ1年。彼はもうじき二十歳になる。
 でも、この日の正志の顔はイマドキの二十歳前の青年の顔ではなくなっていた。

「二十歳になったら結婚しよう」 正志はいつもそう言った。
 親の承諾のいらない大人になったら結婚しよう、と正志は言うのだ。
 そして、私は小さく頷く。

「ドレスはヤッコちゃんが作ってくれるんだったよな。安上がりで助かるよな。
 式って呼べるほどのものじゃあないけど。新婚旅行にもすぐには連れて行ってやれないけど。
 俺、まだ若造で頼りないけど」
 結婚しよう。結婚しよう。口癖のように言う正志。


 式とかそんなもの、私はいらない。
 正志の傍に居たいだけだ。彼のエクボの浮かぶ笑い顔を見るとほっとするから。
 正志からは幸せに生きてきた人の臭いがした。その香りが好きだった。

 私が愛したのは無邪気で子どもっぽさを残した正志。
 はにかんだ笑みを浮かべる正志だったのだ。

 あんな疲れた顔をする哀しい正志を愛したのではない。

 私が正志を変えてしまった。正確には私の生い立ちとそれに対する世間の反応が。
 それが正志を変えてゆく。



 出合った頃の正志はまだ子どもだった。
 大学に入りたてで、一人暮らしを始めたばかりの。だけど、親掛かりで苦労知らずなほんの子ども。
 でも。だからこそ、純粋に彼は私を愛してくれた。薄倖な私に同情し、それを愛だと思い込んだ。


 そして私は。もうとうに<大人>だったので、まあそれでもイイか……と思っていた。
 正志といっしょにいられるのなら、私はそれで満足だった。
 行けるところまで行ってみよう……と、そう考えたのだった。

■■3

 ヤクザ崩れのパトロンがいて、アル中の母親。どこの誰だかすら分からない父親。
 高校中退。補導歴もバリバリ。
 そんな生い立ちの私と結婚したい、と言い出した正志に対し、当然ながら彼の両親は反対した。

 その後は、もうお定まり。
 親の反対の所為で意固地になってしまった彼。そして何も言えない私。

 正志は大学を中退し、私のために働き始めた。彼は親から勘当された。
 純粋な正志の想い。若い正志。子どもの正志。
 子どもの顔で、屈託なく笑い、そして私の過去に涙した優しい優しい<幼い>彼。


 ああ。その正志が疲れた顔をしているなんて。
 仕事に出かけていく正志の顔。
 それは、大人の顔だった。自分で生きることの困難を知り始めた<大人>の男の顔だった。
 がむしゃらに走ってしまった過去を後悔しているのか、それとも歩む未来が不安なのか?




 疲れた顔をした正志。一足飛びに大人になってしまった正志。
 ああ……正志。可哀想な私の正志。

 そして、それが生きている正志の顔の見納めになってしまったのだ。

■■4

「お引取り下さい」

 葬儀に出向いた私に対し、正志の両親はそう言った。
 周囲の視線は痛いほどに冷たい。トラック運転中の事故だった。
 慣れない仕事とムリな稼働時間。居眠り運転による事故だったそうだ。
 正志はあっけなく死んでしまった。

「そんな。せめてお焼香だけでもあげさせてやって下さい。
 正志さんと二人、もうすぐ結婚するんだったんです。来月彼のお誕生日に式をする筈だったんです!」
 いっしょに付き添って来てくれたヤッコが必死に頼んでくれている。

「結婚だなんて……。その女の所為でウチの正志は死んだのよ。あの子を返して!返してよ!!」
 叫び出した彼の母親。黒い着物。喪主の服。

 正志はまだ二十歳ではなく、永遠に二十歳になる日はやって来ない。
 私達はもう、結婚することはない。
 私が彼の喪主になることすら、もう叶いはしないのだ。


 そして、<大人>の私は、まあ仕方がないか……と考えた。そんな事には慣れていた。
 いつも、現実は私の心を置き去りにする。勝手に先へと進んでいく。

「ヤッコ……いいよ。もう帰ろう」
 正志の両親に無言で頭を下げる。そして、葬儀場を後にした。


 もう、行けるところまで行ったのだから……と、そう思ったのだった。

■■5

 私は<大人>だ。
 実を言うとまだ18なのだけど、きっとそんじょそこらの大人よりもずっと<大人>だ。
 よくヤッコとそんな事を言って笑う。

 そこら辺の大人で、寒い冬のさなかに何日も野宿した事のある人が果たして何人いるだろうか?
 母親のオトコにバカスカ殴られて殺されるかナ?と思ったことのある人が一体何人いるだろうか?
 おなかが空いて空いてたまらなくて、万引きして捕まって、ケーサツに行った人が一体何人いるだろうか?
 こんなの極端な話で、普通の大人は誰もした事ナイだろう。
 でも、「経験が人を大人にするんだ」って、大人はよく言う。

 それなら私はきっともう<大人>だ。誰よりも立派な大人だろう。




 身体だって、大人だった。

 正志の死から2ヶ月後。私は自分の異常に気が付いた。
 私の中に彼の子がいた。3ヶ月だった。


「あなた、未成年ですよね?結婚もしていないでしょ?
 堕ろすのなら母体のためにも早い方がいいから。相手の人とよく相談して早めに処置を決めなさい」

 私が何も言わないうちから、産科の医者はそう言った。


 私が未成年で、未婚で。だから堕ろすものだと、もう決まっている口ぶりだった。
 相手の正志はもういない。相談出来るのは他に誰が居ただろう……。

 誰に聞けばよいのだろう?

■■6

 ヤッコ。
 ヤッコは私のたった一人の親友だ。
 親友って言葉は陳腐でムズ痒いけれど、それでもやっぱり親友だ。

 ヤッコの本名は「都」という。彼女は自分の名前が大嫌いで、誰にも「都」と呼ばせない。
 都という名は彼女の父親が付けたのだそうだ。仕事で左遷され都落ちした時に、きっといつか本社に戻ると願掛けに付けた名前だという。

 お父さんは<都>に戻れなかった。本社が彼を呼び戻す事はなかった。
 娘の名前はイヤな思い出の名になった。アル中になった父親は彼女をいつも殴ったそうだ。
 家を飛び出した彼女は、好きだった手芸の技術を生かして、小さな縫製工場で働いている。


 私がヤッコに「今3ヶ月なんだって」と言うと、
 彼女は私のおなかを擦り、「正志さん、生きてたらきっと喜んだのに……」 と嗚咽した。

「産まなくっちゃいけないよ。彼とアンタの愛の証じゃん。
 死んでしまった彼の為にもいい子を産まないと申し訳ないよ。やっぱりさぁ」
「……」

 正志が生きていたら。彼は産めと言っただろうか?
 出会ったばかりの頃ならば、確かにそう言ったろう。エクボを浮かべて笑っただろう。

 でも、あの日の大人の顔の正志は?疲れた顔の彼は?
 ホントウに喜んだだろうか?この小さな命に笑いかけてくれただろうか?

 <愛の証>を重く感じはしなかったろうか。

■■7

 ヤクザ崩れのパトロンがいて、アル中の母親。彼女は私に堕ろせと言った。
 話すつもりもなかったのに、勝手にふらりとやって来て、驚く早さで私の<変化>に気が付いた。
 問い詰められて、白状して。そうしたら開口一番「堕ろしな」と言ったのだ。

「あっちの親は、あんたに家の敷居も跨がせないんだろう?
 正式に結婚してた訳でもないし、正志さんはもう死んじまったんだし。
 認知もなにもありゃしないじゃないか。そんな子産んでどうするんだい」

 母の息は酒臭かった。いつものように酒臭かった。


 面白いものだ。母の態度は正志の生前と180度違っていた。
 『早く、子ども作ってあっちの両親に結婚の承諾印押させなさいよ。
 あっちは金持ってんでしょ?正志さん、イイトコのおぼっちゃんでしょ?折角の玉の輿、逃すようなバカするんじゃないよ、オマエ。既成事実作っちまえば、世間体気にする金持ちは弱いんだからさぁ』

 正志の生前は訊ねてくる度にさっさと子どもを作れと言っていたのに、この変わりよう。
 金が取れないと分かったら……ゲンキンだったらありゃしない。
 私は思わず吹き出してしまった。

「何ヘラヘラ笑ってるの!」 母が突然そうわめいた。その目に涙が浮かんでいる。

「私生児を育てる苦労はあたしが一番身に染みてよく知ってるんだよ。
 悪い事は言わない。止めときな。あんたはまだ若いんだから。
 別にいい男がまたきっと出来るから。その時の為にもその子は居ない方がいいんだよ……」

 母の目には今日も殴られた痣がある。あのヤクザに殴られたのだ。
 自分が殴られても黙っているが、幼い私が手を上げられると烈火の如く怒り狂った。ヤクザに組み付いて早く逃げろと私に叫んだ。そして、それでも。どうしても悪い男と別れることが出来ない……そんな女なのだった。弱い女なのだった。それでも母は母なのだった。

 私の身体の変化に気付いたのも、早く子を作れと言ったのも、今堕ろせと迫るのも……。
 彼女が私の<母親>だから。彼女なりに娘の幸せを案じているから。


 母の息は酒臭かった。いつものように酒臭かった。
 疲れ果てた大人の女の顔をして、母は「堕ろした方がいい」と泣くのだった。

■■8

 産むか堕ろすか。
 まだ、その決断を下すには猶予があった。

 正志の事。ヤッコの話。母の訴え。そして私自身の考え。
 きちんと考えて結論を出したい。後で後悔のないように。



 そのまま、毎日は淡々と過ぎた。私がまだ考えを決めあぐねていた。そんなある日。
 正志の両親がやって来たのだ。
 どこから話が漏れたのか、唐突におなかの中の子を渡してくれと言い出した。

「正志の忘れ形見です。産んでください。そして私たちに引き取らせてください。
一人息子のあの子を失って、私達は生きる希望を失いました。せめておなかの子を生きる糧に  したいのです。どうか、その子を私たちに下さい」

 この子を産んで彼らに渡し、そのあとはもう2度と会わないでくれ、と彼らは言うのだ。
 私の子ではなく、正志の子が欲しいのだと。そう訴えるのだ。

「勿論、それなりの謝礼は用意するつもりですから」
 金でこの子を買い取りたいと、彼らは口々に言うのだった。


 正志が勘当された直後。その時にも正志の母親はこっそり私を訊ねてきた事があった。
 厚みのある封筒を品の良いハンドバックから取り出し、
 『手切れ金です。これでどうかあの子の前から姿を消して下さい』 と取り澄ました顔でそう言った。

 金。金。金。
 この人たちにとってそれが全てを解決する切り札なのか。
 あの時はその考え方に虫唾が走った。私や正志の心を金額に置き換えるなんて、なんてさもしい心の人なのだろうと頭に来て追い返した。

 でも。
 今の私は昔と違う。腹の中の子を育てるには確かにお金は不可欠で、そして正志はもう居ないのだ。


「あなたが育てるよりも、その子は私どもの手元に居る方が幸せです。
 その子を正志だと思って、きっと大事に育てますから」

 私には「少し考える時間を下さい」とだけ言って、その場を引き取って貰うしかなかった。
 正志の両親はいいと言うのに、栄養のある物を食べるようにと幾らかの金を置いて行った。

■■9

 産め。
 堕ろせ。

 産んだ方がいい。
 堕ろした方がいい。

 産むべきだ。
 堕ろすべきだ。


 私の頭の中で多くの声が木霊する。

 誰の意見が正しいのか。誰の考えが間違っているのか。
 私はどうすればいいのだろう。
 私生児として生きる苦痛。私はそれを知っている。

 偏見など持たない、と言う世間。教師や、医者や、警察や、世知に長けた大人達。
 その全てが実は多くの汚い色の色眼鏡を掛けているのだという事を私は嫌というほど知っている。
 その経験がきっと私をこんなに冷めた<大人>に成長させてしまった。


 産むべきだ。
 堕ろすべきだ。

 そして、彼らは好き勝手にそうはやすのだ。




 子どもに勝手にじぶんの夢を押し付けるなんて、サイテー。
 子どもは親の欲望の道具じゃないっつーの!

 いつもそう言って、父親を軽蔑していたヤッコ。

 そんな彼女だったのに、そのヤッコはなんと言った?
 自分の子どもの存在を知ることもなく、死んでしまった正志おやの為に産むべきだ、と言ったのだ。


 正志の両親は彼の代わりに生きる糧にしたい……とそう言った。
 正志の形代として愛されて、そんな代用品として生み出される事がこの子の幸せと言えるのか?

 金で幸せは買えるもの、と信じている正志の両親。
 亡くした息子の命は金で買い戻せはしなかったのに。それでも金の力に盲従するというのだろうか?


 母。母は私の母だから、私の苦労は見たくない、と訴える。
 だけど、そんな苦労をおそらく分かっていながらも、母は私を産んだのではなかったか?
 そして、彼女なりの愛情で育ててくれたのではなかったのか?



 ああ。結局、誰の言葉もアテにはならない。
 と言うよりも、誰の意見もきっと正しく、そして間違っているのだろう。

 それは結局他人から見た意見だからだ。
 その人その人それぞれの側から見た言葉としては、おそらくどれもが<正しい>のだろう。


 でも、それは当事者の言葉ではない。
 産む/堕ろす私自身の立場から見た考えではない。

 産むのも堕ろすのも、育てるのも育てないのも結局は私自身。
 だから、答えを出すのも「私」でなければ……。

■■10

 ……私?
 そう。産むのは私だ。産まないのも私。

 でも、「産まれてくる」のは?「産まれることが出来ない」のは?
 私生児と呼ばれるのは?呼ばれる事もなく、死んでいくのは?

 それは、このおなかの中の子どもではないのか?
 この子こそが、私以上に一番の<当事者>ではなかったのか?


 ああ。
 私も含めて全ての人が、この子の人生を「私」や「正志」や「親」のそれに話をすり替えてしまっている!

 生まれ来て、生きていくのはこの子自身だというのに。
 生まれることが出来ないのはこの子自身だというのに。
 それなのに、なぜ!

 なぜこの子の意見だけが聞けないのだ!?



 まだ名前すら持たないこの子。
 性別すらもあやふやな、まだ儚いこの命。

 この子は決して「私生児」という名前ではないのだ。
「私の子」という名でも、「彼の子」という名前でもない。

 この子の名前は「愛の証」でも「生きる糧」でも、「忘れ形見」でもなんでもない。


 そんなものがこの子に何の関係があると言うのだろう?
 この子はこの子だ。この子の生きる権利も死ぬ権利もこの子自身のものなのだ。
 私のものでも、正志のものでも、他の誰のものでもありはしない筈なのに……。




 ああ、そう。
 そうだ。

 私はこの子の声が聞きたい!



 この子が生まれて、生きて、戦って、泣いて、笑って、大人になって……。

 私はそんなこの子の言葉を知りたい。
 いつか、この子自身の出した答えをこそ聞いてみたいと思うのだ。


 産もう。私はこの子に命を与えよう。
 行けるところまで行ってみよう。この子と二人で行ってみよう。

 そして、この子が<大人>になる日。
 名もなきこの子のホントウの名は、きっとその時、この子が決める。


End--------------------------------------  この子の名前




■■後書き

「〇〇の子」「〇〇の友達」「〇〇の妻」……。
 私には沢山の名前があります。多くの名前達は私が<生きて>いるからこそ付きました。そう望まれて付きました。でも、その内の幾つかはいつの間にやら付けられてしまった名前のようにも感じます。
 貴方には幾つの<名前>がありますか?その中に貴方自身が付けた名前はあるでしょうか?
 自分の名前ですもの。自分で名付けたいものですねぇ……。

 正志の側から見た話や、その後の子どもの話や、その他の登場人物たち。出来れば、もう少し書き足してみたい話であります。

 ところで。
 この話は<書き込み寺・共同企画>参加作品(のつもり)です。
 ちなみにテーマは「誕生」でした。
 いまいちテーマと噛みあってナイよなぁ〜……。スマン。
 〆切も切羽ちゃんで、焦って書いたので出来が悪い話ですが……「書いた」ってことのみを評価して頂けると助かりますです。(→寺メンバー様)


 宇苅つい拝

タイトル写真素材:【NOION】



 ついでに「ひと言」下さると、尚嬉し↓

↑ ランキング云々とは無縁な個人仕様。小説書きの活力源です。お名前なども入れて下さると喜ぶにょ


よければTweetもしてやってね


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