「 真白にぞ降りけむ 」
■其の一
牢の奥底に季節の訪れなどなく、ただ常しえに冷ややかなる静寂があるのみである。
鉄格子のはめられた、小さな明かり取りの窓。その外を一瞬影が掠めて過ぎる。あのように翔ぶ鳥の如く、自由の空を駆けていたのは、一体いつの事であったのか…
平松藤吉郎はゆるりと面を上げ、窓を見遣った。多少眩しげな目が細められる。書を写す手元は白く、陽に当たる機会を失って、いかに久しいかを物語るかのようだ。
己が身を縛る永遠の悪夢。それともあの幼き日の、野山を駆け巡ったあの時こそが、都合の良い夢まぼろしであったのか…。それすらを思いやる事にさえ、もう疲れてしまった。
■
「平松様」
常に聞く看守の声とは異なる静かな、しかし凛として響く澄んだ声音に促されて、その方を見遣る。薄闇の端に朧な人影が浮かんだ。
「お食事をお持ち致しました」
腰までかかろうかと見える長い艶やかな黒髪を、肩口にて結わえた女はそう云うと、まだほのかに湯気のたつ膳を運んできた。いつもならば冷えた粟粥がせいぜいの筈のそれ。
「おぬしは?」
いぶかしんで問う。女は静かな笑みで応じた。
「平松様の刑、明日午
私
膝を折り、きちんと礼を正す女の白地の衣に髪の黒が映える。
「そうか、明日か」
別に驚きも、ましてや恐れなど微塵もなかった。お上の裁きにて刑の決まった時。否、憎き敵
「ようやく----」
藤吉郎は静かに瞳を閉じた。
■
やがて夜も更けた頃。
やはり牢の奥には、蝋燭の薄く灯った明りの元、黙々として書を書き写す藤吉郎の姿がある。一組の夜具(寝具、布団)卓袱台、そして今、藤吉郎の向かっている書見机。それが罪人である彼に許された唯一の家具であった。
傍に散らばる数冊の冊子。楓の指がその内の一冊に伸び、ぱらぱらと戯れにめくっていく。
「沙石集
「そなた…」
そう云えば、その物腰、口調…いずれをとっても浮かれ女
「お床(布団)を整えましたので、お休みなされませ」
涼やかな面差しが促す。それをきっと睨み据えた藤吉郎が問いを発した。
「そなた、何者だ?」
「私は----」
静かな笑みを浮かべる、鼻筋の通った線の細い、美しい顔立ち。
「私は、貴方様のお世話を致します者」
どこか寂しげな、それでいて凪いだ海原のように穏やかなる眼差しの、その奥に映る何か。
藤吉郎は、もうとうに忘れていた筈の欲を覚えた。
伸びた藤吉郎の腕が女の腕を掴む。
「夕餉
「何なりと」
見返す瞳はやはり静かに澄んでいた。
■
伸ばした指に掴んだ女の細腕をぐいと引く。それに別段抗う風もなく、ゆるりと躯をまかせてくる。
長い黒髪が一息遅れて主を追った。美しい面差しが、蝋燭の小さな灯りに照らされて、微妙な影を織り成す。その妖艶とさえ見える美しさ。
「死を前にした罪人
「お望みとあれば」
用意された床に多少乱暴に打ち伏せる。そのままのし掛かり、藤吉郎は女の衣の衿をぐいと開いた。乱れた髪の束に隠れて今、楓の表情は窺えない。
おそらくは、先程と変わらず穏やかな瞳をしていよう。
藤吉郎は、そう思った。
そのまま、懐中深く手を納めようとして、止める。懐に、夜目にも鮮やかな一本の朱塗りの笛があった。
「そなた、何者だ?」
解かれた腕から起き直り、楓が居住まいを正す。乱れた髪をゆるく掻きあげた。
「その物腰からして、ただ人ではあるまい」
黙したまま静かに笛を取り上げる、女の白い指。
「その笛にしても、かなりの品と見た。何処ぞ名家の出であろうに、それがどうして、このような場所にある?こんな、罪人相手に躯を貶
薄暗い牢内に甲高い音が響く。楓の指がゆうるりと、しかし正確に動いて、美しい曲音を形作る。その音は長く、狭い牢内に木霊していた。
■其の二
「私は…」 ようやくに笛を離れた口唇が開く。
「私は、人を探してここにおります」
「人を?」
「はい」
「恋人か…」
長い髪が揺れて否定する。
「身内の者か?」 また揺れる。
「誰でも良いのです。私を連れ去って下さる方であれば」
「どういう意味だ?」
「私は…」
女は、そのまま口篭もり、笛の吹き口を袖でそっと拭った。
■
「私は平松様のお考え通り、さる大名家の生まれでございました」
「それが何故?」
「私の生まれと同時に、私の兄も生まれましたので…」
「畜生腹
軽口に、すまぬと頭を下げる藤吉郎に、いいえ、と楓も声を返した。
畜生腹とは、行く行く末にお家騒動などを引き起こす悪凶の印として忌み嫌われるもの。故に、どちらか片方は里子に出すか、生涯座敷牢に幽閉するか、或いはいっそ、殺してしまうのだと云うことは、藤吉郎だとて武士の端くれ、聞き及んでいることである。
「私は奥座敷深くにて、誰の祝いを受けるでもなく、十五の歳まで育ちました」
髪の端が僅かに揺れる。瞳に泪は見えなかったが、きっと泣いているのだと藤吉郎は思った。
「ただ、生かされているだけの、己が空蝉の如き身の上が恨めしゅうて、逝ぬる為にのみ、逃げをみました。けれど---どうしても死に切れませぬ」
白い拳が細かく震える。握り締めるとより白くなる。
「私は、ずっと、ただ独りでございました。せめて、逝時なりと、誰かと共にありたいのです」
「それで、ここへ?」 ことりと頷く。
「ここに来られる方は罪人ばかり。されど、死を前にした方々は皆、清しい顔をしておいでです。私に、本当の人の情を、情けを教えて下さいます。一夜の夢を見せて頂いているのは、本当は私の方なのです」
それ故に…
「その白い衣は逝った者への供養の為か」
「はい」
「誰も---まだそなたを導いてはくれぬのか」
「---はい」
■
すべての者が一様に静かな死を迎える訳ではあるまい。否。殆どの者が生きたいと願うて泣き叫ぶ筈。その慟哭を、苦しみを、総て己が内深く飲み下して。
それでも、尚、生きているのか?この女、楓。
「貴方様はこれまでで一番優しい瞳
「私は、人殺しだ」
「それでも----本当に美しい瞳をしておられます」
白い膝元に置かれた朱塗りの笛。その鮮やかな彩りが闇夜に慣れた藤吉郎の瞳を射る。
「紅白…」
「は?」
「吉兆の、美しい色合いだ。そなたに合う」 藤吉郎様、と発する口唇も、薄闇の奥でほのかに紅い。
「もう一度吹いてくれぬか」
「幾度なりと」
朧な月が漆黒の空に漂うように浮いている。
僅かな明りの漏れる小さな窓の奥からは、笛の音色が時には高く、そして低く…いつまでも、長く響いて鳴いていた。
■其の三
「平松藤吉郎、出ませい」
時を迎え、刑場へと引き立てられてゆく瞳に映る久方ぶりの空の色。何物にも遮られない、視界一杯に広がるその青に、藤吉郎はしばし見惚れた。
白い桜の花びらが、歩む足元に戯れる。
今は春か…。
短刀の置かれた、その前に座す。傍らに立つ男が問うた。
「何か望みは?」
「そう…。あれに見ゆる桜の枝を一振り、所望したい」
ほどなく、役人が折って来た枝を己の懐に浅く差す。
「-----お覚悟を」
短刀を手に取り、腹に当てる。背後の男が介錯の刀を振り上げた。瞳を閉じる藤吉郎の耳に響いてくる、大気を震わす美しい音色。
■
『そなたも…逝くか?楓…』
「共に、な…」
『はい、共に----』
無言の気合い。
桜の花弁が狂った様に舞い落ちる。笛の音が一条甲高く、悲鳴にも似た音を上げた。
■
「もし、笛を吹いておったのは、その方か?」
ゆるりと面を上げる。座す楓の前に、一人の役人の姿があった。
「はい」
「これを----刑死した男がの、そなたに渡してくれと」
そこには見事な桜の枝。しかし…。
「したが、何せこの通り血が、の。夥
そう云って気味悪げな眉をしかめてみせる。
「いくら死人
「いえ。どうか、下さりませ」
伸ばした両腕で枝を受け取る。やがて役人も立ち去った。それに黙礼した楓が視線を己が手に落とす。
藤吉郎の生命
■
「ほんに…」
楓の瞳が情を込めて細められた。
「ほんに、白に紅とは、何と美しいこと…」
翌朝。
桜の木の下
桜の花弁は何時の世も、紅の陽射しに照らされて、
真白
■■後書き
お正月⇒純和風(なんて安直!)と云うことで、書いてみたんですが、人死にが出てるよ!ちっともメデタクないじゃんかー!!!
2001年、かなり不吉な幕開けでございます。ごめんなさい。
なるだけ時代がかった文体で、とは思ってみたものの、かなり文法ヘンですね。いやぁ、日本語ってムズカシイわ…。
藤吉郎の名前は、なかなか一発入力が困難で、「フジヨシロウ」で打ってました(笑)。どこが耽美?シリアスは何処へ?ま、作成現場ってのは、そんなモンなんでしょうか?
藤吉郎の過去(どんな経緯で敵討ちをしたのか)などは、一応考えてはいたのですが、結局、今の二人にはどうでもよいことのように思えて、省いてしまいました。楓の過去についても、以下同文。読者の皆さんがそれぞれに考えて下されば嬉しいなぁ。
そうそう、手に手を取って二人が牢破りして駆け落ちするって云う奴を期待していた方にも、ゴメンナサイですね。(笑)
漢字が読み辛いとのご指摘を頂きまして、第2回分の更新から、前に遡ってルビをふってみました。読みにくい(だろう)漢字。音的にこう読んで欲しい漢字にふっています。時代物と云うことで、日常あまり使用しない単語が山ほど!ですものね。少しは読みやすくなったかなぁ…
拙いものではありますが、感想等頂ければ幸いです。
宇苅つい拝
タイトル写真素材:【clef】
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