「 必要のないもの 」
■1
「口を利かなかったら、どうなるのかな?」
それは、ちょっとした思いつきだった。
耳が聴こえないのは困ると思う。学校で先生の話が聴こえないと勉強にならないし、テレビだって音無しじゃつまらない。目も見えないのは困る。先ず、見えなくちゃ歩けないし、マンガだって読めない。何よりも、ボクの大好きな夕焼けが見られなくなるのは悲しすぎる。
それに比べて、口はどうだろう?
しゃべれなくても、大して困らないような気がした。
ボクは元々無口な方だし、口は本来食べるために付いているのであって、しゃべる用は2番目だ。だって、人は食べなかったら死んでしまうけど、別に話さなくても死にはしないもの。
だから試してみることにした。
今日から、ボクは口を利かない。
■2
今日も夕焼けがきれいだった。
家から自転車で10分程のこの空き地は、ボクの1番のお気に入りだ。
何に使っているのかは知らないけれど、トタン屋根の小さな倉庫があって、その壁にくっつけて横倒しの角材が沢山積んである。それをよじ登ると巧い具合に屋根の上に上がれるのだ。
きっと、誰かに見つかったら、危ないと怒鳴られるのだろうけど、滅多に人が来ないので、まだ怒られたことはない。
歩くとベコベコ情けない音をたてるトタン屋根の上に体育座りして夕焼けを見る。
空が赤く染まって、雲もきれいなオレンジ色になる。遠くに山の影が黒く連なって、その山と山の影の間に今日の夕日が沈んで行く。
その夕焼けを見ながら決めたのだ。
今日から、ボクは口を利かない。
■3
いつものように鍵を開けて家の中に入った。
明りを点けて、それからテレビもつける。時代劇のチャンネルだった。今日はボクの好きなアニメはお休みだから、どこのチャンネルでも同じことだ。
ランドセルから国語の教科書とノートを取り出す。今日は漢字の書き取りの宿題が出た。
30ページから33ページまでの新しい漢字をそれぞれ10回ずつ。
「営 営 営 営 営 営 営 営 営 営」
「美 美 美 美 美 美 美」
32ページまで済んだところで、電話が鳴った。
「ああ、サトシ?」 お母さんだった。ボクは黙っていた。
「今日ね、お母さん遅くなるから。冷凍庫にカレーがあるの、分るでしょ?それチンして食べててちょうだい。栄養のバランスが悪いから野菜ジュースといっしょにね。いいわね?じゃあ、なるべく早く帰るから」
言いたいことだけ言って、お母さんの電話は切れた。ボクは黙ったままだった。
話さなくても困らなかった。
■4
「営 営 営 営 営 営 営 営 営 営」
「美 美 美 美 美 美 美」
漢字の書き取りって、なんだかバカみたいだ。「10回ずつ書いたら覚えられる」って先生は言うけど、ちっとも覚えた気がしない。
大体、なんで「10回」なんだろう?例えば、お隣のけいちゃん。あの子は頭がいいから、9回だって、もしかしたら5回でだって覚えちゃうだろうに。5回書いて覚えられるなら、残りの5回をけいちゃんは何のために書くんだろう?10回書いても覚えられないボクみたいな子供の分かしら。
冷凍庫からカレーのパックを出して、チンして食べた。野菜ジュースはトマト味のしかなかった。ボクはトマトは嫌いだ。ニンジンのジュースなら良かったのに。
ニンジンジュースは夕焼けの色だ。トタン屋根から夕焼けを見ていて気がついた。それからニンジンが好きになった。
「ボク、ニンジンジュースの方が好きだな」 って何度も言ったのに、お母さんはちっとも覚えてくれない。
そういえば、お父さんも
「何回言ったら、新しい靴下買って来てくれるんだ」 って言ってたっけ。
お母さんも10回ずつ書き取りをすればいいんだ。
トマトジュースは飲まなかった。
パックの中身が減っていないとおかしいから、コップに注いでそのまま流しに捨ててしまった。
■5
お母さんは8時過ぎに帰ってきた。
「ちゃんとご飯食べた?」
「宿題はもう終わったの?」
「学校は楽しかった?」
ボクはひとつひとつ頷いた。学校の話の時にはちょっと口の端を上げて笑って見せた。
「じゃあ、早くお風呂に入って寝ちゃいなさい」
もう1回頷いた。
それで、全ては十分だった。ボクが口を利く必要なんてないんだ。
お母さんはちっとも困っていない。
ボクも全然困らない。
ボクはとても満足だった。
■■後書き
随分前に書いていたショートストーリーのノートが見つかりまして、折角なんでUPしてみました。
この話は、とても気に入っているので、いつか必ず続きを書きたいと思っています。
宇苅つい拝
タイトル写真素材:【NOION】
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