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 TOPエッセイおたわごと>01

■001 ボランティアの意味
■002 教育を疑え!
■003 子どもの恐怖、大人の恐怖
■004 妻との会話を拒む夫達へ
■005 許せないこと

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001 ボランティアの意味

今日・・ってか、最近のニュース観て知ったんだけども、なんだら政治家サンたちは「学生にボランティアをやらせる」法案を作りたいらしいって?
バカか!!
いや。ボランティア自体は素晴らしいことだよ。ぜひぜひやって欲しいッス。
でもね。法案を作るってことは「強制」的に奉仕活動をやらせようってコトでしょ?
そんなん、ボランティアとは呼ばんじゃろう。自由意志・無報酬ってのがボランティアだぜ。政治家、辞書引け!辞書!!

大体、強制させることを子どもは一番嫌がるのよ。
例えば、イヤイヤながらに身障者の方の介護のお手伝いをやった子どもが居た、として。
その子どもは福祉活動の重要さに果たして気づくじゃろーか?
イヤイヤ、仕方なくやってるのに、キライになりこそすれ、大きくなってからも続けよう!って思ってくれる子、一体どのくらいいるんでしょーねー?

考えてみれば、イヤイヤな子どもに介護される身障者の方だって、更に輪をかけてイヤだろう。
人の心の機微に聡い人たちなんだぜ。嘗めんなよ。
その上、「どうもお世話になって・・・」なんてお礼まで言わなきゃならんとしたら・・・
あ〜〜〜ヤダヤダ。なんか間違ってるよ。

第一、この法案を作ろうとしてやがる政治家サンよ!アンタ1度でも福祉活動したことあるんかい!?
国民の血税ムダに使ってるばかりが能じゃねーだろ?
おまえさんたちこそヤレよ。ボランティア。
てめぇらが汚してる国会議事堂のトイレ一つでも掃除してみてからこの法案のイミをもう1度考え直して欲しいもんだ。

002 教育を疑え!

ニュースで観て、書きたくて書きたくてしょうがなかったのに、寝てました・・嗚呼哀しきかな、ボロ身体。 
・・・と言うわけで、ちょっと時事ネタとしては遅いですが、
「ハンセン氏病、告訴取り下げ」!!!

やりましたね。過酷なる差別に苦しんできた皆さん。
やってくれちゃいましたね。小泉首相!!
小泉さんがこれから先、どんな改革をなさるのかは知りませんが、この告訴取り下げの1点だけでも、彼は歴史に名を残すべき首相だと思うですよ。スンバらしいことであります。

ニュースを観た時はホントウに泣けました。ああ〜、やっと日本も近代国家らしい判断が下せるようになったのか・・。

人の肌の色や、出生や、病気や・・その他多くの「その人本人の責任ではない」事による差別。

ぴーしゅけはこのような差別は人間として一番愚かなる感情だと思います。
なぜなら、差別をする人々は、決して「自分で導き出した考えで」差別をしている訳ではないからです。

では、誰の考えなのか?
これらの差別の多くは環境や歴史や教育が作り出します。
周りの人が「そう言っているから」あの人は醜い。
「少数派だから」あの人はヘン。
この図式、分りますか?
心当たりはありませんか?

私たちはホントウの自分の意志で差別意識を持っているんじゃないんです。幼い頃から、いつの間にか押し付けられた思想でもって、他者を判別しているのです。

もしも黒人が、例えばインドの白牛のように神聖化された社会で暮らしていたとすれば・・アナタはきっと黒人を神の如く崇めるでしょう。
北朝鮮なんか、イイ例だ。

そんなもんなんだよ。教育ってのは。
だって、みんな信じてるでしょ?地球は丸いって。
実際にその目で確かめた事あるかぁ?ホントウニィ〜?
ってか、疑ったことさえないんじゃない?「みんなが信じてるから」私も盲目的に信じてる・・・。

教育と言うのは素晴らしいことですが、あるイミ恐ろしいものでもあるのです。
だからこそ、恐れ多くも「近代国家」と名乗る国に置いて、国自体が差別を良しとしてはいけないのだと思うのよ。

それを「良し」としてきたこれまでの日本。
とどのつまり、日本なんか近代国家じゃねーんだよ!
アメリカだって黒人差別しているうちは、ぜ〜んぜん近代国家じゃねーゾ!!ナニが世界のリーダーじゃ!バカタレ!!

少なくとも他者を判別したいのならば、自分自身の確固たる意志で選別基準を設けるべきです。
そして、そのことに責任を担うべきなのです。
人様より上位に立った気になりたいってのなら、その程度の気構えはもつべきでしょう。

いつの間にか植え付けられた選別法で、人よりも上位に立った気になるなんて・・・なんとも愚かしいことではありませんか。お前の意思はどこサ言ったダ!?

アナタの周囲に数多く存在する判断基準。それを鵜呑みにする前に、ちょっとだけ考えてみて下さい。それは本当にアナタにとって信じるに足る事なのですか?

いわれなき差別や偏見を無垢なる子どもたちに教育しない社会。過ちは過ちだと潔く非を認められる国家。
それがホントウのホンマモンの近代国家だとぴーしゅけなんぞは思ってしまうのですが、皆様はどうでしょうか?

003 子どもの恐怖、大人の恐怖

TVで病気の子どもが映っていた。幼稚園くらいの年齢だろうか?顔色が悪い。眼に力がない。
本当に具合が悪そうで、見ていることが辛くて番組を変えた。

子どもが大きなケガをしたり、重病だったりする様子は、本当に見ていて辛い。あの小さな、いたいけな身体で、それでも懸命に戦っているのか・・と思うと涙がこぼれる。
子どもの病気やケガは、大人のそれよりもずっと、重く心に痛みがのし掛かるものだ。

しかし、である。
私はこういう時、過去の自分を思い出す。
プロフィールページを見てくださった方はご存じだと思うが、私は幼い頃に交通事故に遭っている。
その当時の自分の心中を思い出すたび、また、それと現在の自分の心を比べてみるたび、本当に子どもの方がかわいそうなのだろうか?と疑問を覚えてしまうのである。

なんだか、とっても自分が冷たい人のようにも感じるが、事実そう思うのだからしょうがない。
何故そう思ってしまうのかを今日は書いてみようと思う。

事故に遭ったその時。幼い私がまず考えた事は
「どうしよう。お母さんに叱られる!!」 ただそれだけだった。

外見上は擦り傷程度であったが、私の腎臓はその時既に破裂していた。
今、思い返してもかなり具合が悪かったのだ。はっきり言って、生命の危機であったはずだ。

それにも関わらず、幼い私は、自分の命の心配をするのではなく、親をどう誤魔化せば叱られないかを一生懸命考えていたのである。
あまつさえ、集まってきた大人達に向かって、「大丈夫です」と立ち上がってみせさえした。
よろよろしながらも、無理やり必死で立っていた。「大丈夫だから、お母さんにバラさないで〜」と思っていたのだ。

つまり。
幼かった当時の私にとって、「死」とはまだ恐怖の言葉ではなかったのだ。
「死」というものを知らなかった。無知だった。だから怖いと思わなかった。
幼い私にとって、一番の恐怖は親に叱られることだったというわけだ。

以前、これもTVで観た話だが、幼い頃家の農機具に不用意に触って、腕を切断するという大怪我をした少年も、その瞬間「親に怒鳴られる!!」と考えたそうである。
切断された腕の痛みよりも何よりも、怒る親への恐怖の方が勝っていたというわけだ。

もしも、今。大人になった私が同様の事故に遭ったのだとしたら。
私は先ず、自分の命の心配をするだろうと思う。

不用意に立ち上がったりなどは絶対にしない。それで、症状を悪化させて死ぬ可能性だってあることを知っているからだ。

常とは違う気分の悪さは、最悪の事態を私に想像させるだろう。例え、死ななかったとしても、入院費のこと、その間の家庭のこと。もしも障害が残った場合の自分のその後の未来など、様様な事を考え、苦しむだろうと思う。恐怖はきっと子どもの頃のなん10倍にもなるだろう。

病気やケガで本当に辛いのは、肉体的なことではない。
精神的なことなのだと私は思う。

そして。子どもは無知だ。あまり多くを考えない。というか、考えられない。
現に私がそうだった。

このように考えていくと、大病や大怪我をして、本当にかわいそうなのは実は、幼い子どもではなく、ある程度知識や経験の身についてしまった大人なのでは?・・と、私は思ってしまうのだが、皆さまはどう思われるだろうか?

そうは言っても、ハタから見ていてかわいそうなのは、やっぱり子どもですけどね。

004 妻との会話を拒む夫達へ

友人からTELをもらう。普段の彼女らしからぬ暗い声だ。
しばらくのムダ話の後に彼女はやっと、こう切り出した。

「私、離婚を考えてるの」
電話口の向こう側からは幼い子どもの無邪気な笑い声が聴こえる。


私の友人でこういう電話をかけて来たのは彼女が初めてではない。
実を言えば、またか・・と思ってしまうくらいこの手の相談は多い。誤解しないで頂きたいが、「またか」というのは、別に聞きたくないとか面倒くさいとかという意味ではない。

彼女達が離婚を考えてしまう原因が、みんなかなり似通っているのだ。そのことを「またなのか」と思ってしまうのである。

彼女達は「私って夫にとってなんなの?体のいいお手伝いさん?」と感じ、主婦業を空しいと感じている。

彼女達・離婚を考える女の共通点は
1:小さな子どもがいる
2:専業主婦である
3:夫との会話がない
4:彼女達はものすごく良妻賢母に勤めている

の4点である。そして、この4点を突き詰めて行くと、必ず「夫の妻に対する無理解」に行き当たるように私は感じる。
いや。「妻」への無理解というよりも、「妻・母親」という名の「仕事」への無理解といった方が的を得ているかもしれない。

よく、世の人々(特に年配の男性)のいう言葉に「男には外に出ると7人の敵がいる」というのがある。だから男は大変なのだ、という意味であろう。

確かに、働く事。それで自分や妻子を食わせていくという事は大変だ。7人どころか「周り中敵だらけ」なんて男も多いことだろう。女だって昨今は、結婚前の数年間、短い腰掛けであったとしてもイチオウはそれなりに働いた経験のある人が多い。毎日毎日働き続ける事の大変さは充分に理解しているつもりである。

しかし、はてさて。世の夫族はご存じだろうか?
妻には外どころか「家の中に敵がいる」ということを。

その敵とは、即ち「ダンナ様」の事である。
私は彼女達・離婚したい妻の話を聞いていて、そう思った。
離婚を考える妻にとって、夫とは上司である。家庭という名の会社の中での直属の上役である、しかも、最低な上司であると。

「お前の料理は不味い」とか、「今日は掃除をしてないのか?」とか「子どもを泣かせるな!うるさいぞ!!」とか「今月の食費掛かりすぎじゃないか?」とか。

これらの台詞は会社の上司の言うところの「君の書類不備があるよ」「今日は契約取れなかったのかね?」「部下の教育には責任を持ってもらわんと困るよ、君ィ〜」「〇〇クン、先月の出張費、ちょっと使いすぎじゃないのかねぇ〜」と一体なんの違いがあるというのだろう?

しかも、「妻という仕事」は一生懸命やればやるほど「それが当然」になっていく。毎日一生懸命献立を考え、美味しい手料理を作っていた妻が、たまに出来合いの惣菜を出す。途端に最低上司な夫は不機嫌になってしまうのである。10の働きぶりは見ず、1の怠慢を見て怒る。

普段「よく頑張ってるね」とは言ってもらえずに、ちょっと手を抜くと文句を言われる。
幾ら頑張っても昇給もない。昇進もない。年金だって(離婚しちまえば)ありはしない。労いの言葉一つなく、それでも、毎日毎日ただひたすらに同じ日々の繰り返し。
それが「主婦業」なのである。

その上、男の仕事と違って、妻・母親の仕事は24時間・年中無休制である。盆も暮れもありゃしない。逆にその時のほうが忙しい。間に昼寝が入ったりもするだろうが、何せ24時間労働なのだから仕方があるまい。朝は8時に始まって、5時にきちんと終わるというシロモノではないのだ。

夜10時。お風呂にも入って子どもも眠った。ほっと一息・・と思っていると、夫が「おい、上着のボタンが取れてるんだ。付けといてくれ」なんて言う。はあ〜とため息をつきつつ、裁縫していると、「小腹がすいたな。軽く飲むから何かつまみを作れよ」と言い出す。
つまみを作った後は後片付けもしなくてはならない。夜のうちに片付けておかないと、明日の朝の弁当作りの時に手間が増える。
やっと眠りについて間もなく。「ママ、おしっこ〜」と子どもが起こす。ああ。夫のイビキがうるさい・・

外に出て働いている夫だってストレスは満載だろうが、家の中で働く主婦だって、ストレスだらけの毎日なのである。家に上司がいて、いっしょに生活している所を想像してみなさいよ。怖いでしょーが?ストレスで胃に穴空きそうな気がしない?(笑)

せめて、会話でコミュニケーションを図ろうとしても、夫は話し掛けてもうるさがるばかり。
「近所の奥さんがああ言ったのよ」「今日はゴキブリが出たの。バルサン炊いた方がいいかしら?」「最近トマトが高いのよ」なんておしゃべりを仕事に疲れて帰った挙句に聞きたくないのも分りはするが、よ〜〜〜く考えてみて欲しい。

妻とはそんな貴方がツマラナイ、クダラナイと思う、狭い範囲の日常にのみ閉じ込められてしまっているなんともカナシイ生き物なのだ。

「釣った魚にゃ餌はいらない」とでも夫族は思っているのかも知れないが、どんな高級魚だろうと、一山幾らの雑魚であろうと、釣った以上は餌をやれ。やらなきゃ、死んでしまうんである。

餌とは即ち会話の事だ。幾らかでも女房の話を亭主がマトモに聞いてやってくれれば、女房のストレスもちっとは緩和されるのである。そいでもって、たまには「主婦業いつも頑張ってくれて感謝してるよ」とでも「主婦の仕事」を認めてくれれば、奥さんは嬉しいんである。それで満足して、もっと頑張ろうという気にもなれるんである。

夫族だって、もしも会社で幾ら頑張ってもその努力を認めてもらえなかったら。会社に嫌気が差すだろう。働く意欲を無くすだろう。「俺って何のために頑張ってるんだろ?」と疑問を覚え、ムナシクなるのに相違ない。
いつまでたっても自分の働きを認めてくれない上司に、歯がゆさと怒りを感じるだろう。

おそらく貴方の奥さんは、貴方の事を「この人の為ならば」と信頼し、一生ついて行こうと心に誓って嫁いで来たのだと思う。
そして、貴方も一緒により良い家庭を築いていこうと1度くらいは思ったことがある筈であろう。

よく胸に手を当てて考えてみて下さい。
貴方は妻と共に、より良い家庭という名の会社を経営していますか?それは共同経営と言えますか?貴方のワンマン会社ではありませんか。

そして貴方は。妻にとって最低の上司ではありませんか?一度、自分の上司と比べてみると、奥さんに逃げられずにすむかもしれませんですよぉ。



追伸:これは離婚したい友人達の話を聞いたぴーしゅけが「女」の立場から見て書いたものです。きっと男の側から見れば別のご意見があることでしょう。
尚、これを書いたぴーしゅけ本人は良妻でも賢母でもありまヘンので、あしからず。

005 許せないこと

小学生の頃、私が通った学校の土手にはよくミミズが大発生した。
雨が降るたび、ミミズは土手下の通学道に流され、そしてそこで干からびる。

その干からびたミミズを私のランドセルに入れてくる3名の男の子達がいた。
靴を履いていてさえ踏むのがイヤなミミズのミイラを無理やり私のランドセルに押し込むのである。
それだけでもたいがい腹に据えかねる暴挙であるが、「何故」私のランドセルばかりを狙うのか?という理由がまたムカつく。

その理由とは単純だ。私の「ランドセルがピンク色」だったからなのである。

最近は赤と黒以外のランドセルもあまり珍しくはなくなったようだが、当時、ピンクのランドセルはとても珍しかった。新興住宅地のかなり大きなマンモス校であったにも関わらず、赤と黒以外のランドセルは私1人だけだったと記憶している。

ピンクのランドセルは実は私の母の愛であった。幼稚園の時に交通事故に遭い、2度の手術を受け、ガリガリに痩せて青い顔をしていた一人娘の私の為に、母が「少しでも可愛いように」との親心で買ってくれたものなのである。普通の赤のランドセルよりかなり値段も高かったようだ。

そんな風に母の心のこもったランドセルだと思っていたので、私もピンクのランドセルをとても大切にしていたのである。

それなのに、阿呆な少年達は「ピンクだから」「他の人と違うから」というクダラナイ理由で、私のランドセルにミミズを入れる。

「ピンク」「ピンク」とはやしたてる少年達の顔や名前は時の流れと共に忘れ去ってしまったが、その下卑た表情だけは今も忘れることはない。多分、あれは人間として最低の顔である。「一般と違う」という理由のみで他人の尊厳を傷つける。数の有利を利用して小数の者を迫害する。人間として最も恥ずべき行為を行う者の表情であったと私は思う。

それを当然のように行う者がまだ幼い小学生であった、ということが今思い返すと恐ろしい。
人間とは心にそんな「悪」を抱えて生まれてくるものなのか?
なんと恐ろしい「業」だろう。人は自分と違うものを攻撃する事によってでしか、自己を確立できないのだろうか?仲間意識を育めないものなのだろうか?

たかが子どものすることじゃないの。たいした考えもなしにやったんじゃないの?と言う方もいらっしゃるだろう。でも、私は敢えてこう言いたい。
たかが「子ども」が。「たいした考えもなし」に。することだからこそ、恐ろしいのだと。

最近、頻繁にニュースなどで耳にするイジメ問題も然りである。
おそらく、発端は苛められる側の子どもと苛める側の子どもとの小さな「違い」だ。その「違い」を攻撃する事で自分と仲間のアイデンティティを保とうとしているのだろう。

そんなくだらぬ自己確立に他人を利用しないで欲しい。そんなもので確立した自己になんの意味があるというのか。他者を攻撃する時の自分の顔を見るがいい。きっとこの世で最悪の下卑た、醜い表情をしているはずだ。その表情をこそ恥じるべきだ。


ミミズをランドセルに入れてくる少年達の暴挙が3度目になった時。
私は迷わず、干からびたミミズを握っていた。気持ち悪いとも思わなかった。
両手に山盛りの乾燥ミミズを持ったまま3人の少年を追い掛け回し、3人全員のランドセルにミミズを入れ返してやった。山ほど入れ返してやった(笑)。

滑稽な事に、自分のランドセルにミミズを入れられた途端、少年たちは泣き出した。
「先生に言ってやる」「親に言いつけてやる」と顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら喚きたてる。

自分達が今まで私にやっていた行為がどれほどイヤな(泣き出すほどに)ものであるかなど、きっと彼らは考えた事がなかったのであろう。反撃に会うなどとも思っていなかったに相違ない。

何故だろう?数を頼みに他者を傷つける愚か者は反撃される事にとても弱い。
結局、とても心のか弱い者達なのだ。だからこそ数の優位にのみすがり付こうとするのだろう。
哀れなことだ。だからといって許す必要はない。いや。決して許してはならないのだ。


1人で女だてらに3人の少年を泣かせてしまったということで、当時の私はかなり「女ボス」であるかのような悪名(笑)を馳せてしまったのだが、実を言うと私はそんな自分にたいそう誇りをもっている。
「負けなかった」
「泣かなかった」
「許さなかった」
そんな自分を誉めてやりたい。

あの時。私が反撃しない限り、あの暴挙は続いただろう。少年達が飽きるまで。若しくは彼らが次の獲物を見つけるまで。ピンク色のランドセルを含め、彼らが攻撃してきたのは私の「個性」であった。
私は私自身を守るために闘ったのだ。

小学生のイタズラごときで、そんなご大層な・・と失笑する方も多いだろう。
しかし、人にはその人ごとに決して「許す事の出来ない一線」があると私は思う。
そこで負けて退いてしまったら、自分で自分を否定する事になりかねない、ある一線があると思う。

人間、生きている以上は闘わなければならない場面が必ずある。
ここだけは許せない、負けられない、と思う合戦の時が何度かは訪れる。

「負けるな!」
「許すな!!」
「踏みとどまれ!!!」

自分を守ってやれるのは、結局自分自身だけなのだから。
「許せない」ことは「許せない」とはっきり自分にも他人にも認めさせよう。
その為に、必死で戦おう。

それが、明日を生き抜く自信につながる。


たかが、ミミズの話をここまで大げさな話題に肥大できる私って、もしかしたらエライかい?(笑)



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