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2015年10月 の日記  ↓下ニ至ル

#東京旅行と7回目寺オフ会
2015/10/02

9月24日から27日の4日間、ダンナちゃんとお上りさんして参りました。主目的は旧知に会うこと。つまりは2年に1度の書き込み寺オフ会です。オフは26日でしたので、まぁそれ以外ナニやってたかをざっと。

美術館と博物館を巡っていました。博物館はダンナの趣味で地下鉄。ちゃんとした博物館のみでは飽き足らず、わざわざ現在大工事中のどこだったか(ぼーっとただ付いて行ったのでワカラナイ)の臨時な小さな展示場にまで足を伸ばしました。たった一人居た案内係のおばちゃんが「九州から来ました」というとめっちゃ熱意マンマンで、「冬までに是非もういっぺん今度は予約して来て。そしたら工事現場が見れるから」とパンフをくれました。マニアがどっと押し寄せると困るので見学の予約情報はネットには一切載せていないのだそう。行きたいけど見たいけど金がねーよ(笑)

さて、オフ会。日程の都合等で来れない方が2名程アリにてとても残念でしたが、今回はみゅうさん、Dさん、tokuさん、私の4名でした。幹事の私がダメ人間なのでご迷惑をお掛けしました。
ちなみに予約してた店で「ココじゃなくって昨日ダンナとふらっと入ったあの居酒屋にすれば良かったーっっ (T▽T)」とダメダメ幹事が喚いていたお店はこちら。

上野駅すぐの焼き鳥屋さんです。ここは美味かったですよ。つまり……これ以上言うまい。

1次会を終えて5分ほど歩いたところで(Dさんとは時間の都合でそこでお別れ)2次会は茶店に入りました。そこでなんと上着を前の店に置き忘れたことに気づく私。しかも上着のポケットには携帯が。。。青ざめる私。呆れる一同。寺のお母さんたるみゅうさんが連れて戻ってくれました。しかも一本道なのに店に気づかずスカッと通り過ぎちまう私。「コラ、どこ行くの? ココだよ!」みゅうさん、生涯足を向けては寝られません。こんな阿呆でごめんなさい。上着と携帯、共に無事に戻りましたみゅうさんは抱擁力に充ち満ちた美魔女です。

それにしても、寺のオフ会もタイトル通り7回目です。ざっと遡ってみましたが、1〜4回が東京で、5回目は10周年記念の大阪、6回目が私のワガママで福岡。そして今回の東京です。2年に1度がずーっと続いて、寺も14年になってます。ネットで掲示板が流行っていた頃からの、ネットがなければ知り合うこともなかった私達です。管理人の私の怠慢で寺自体は現在ほぼ機能していません。にも関わらず、「また次回も会いましょう」って。だってさ。私ゃ泣けちゃったよ。

正直、今回は寺閉める相談かなーと思っていました。でもまぁ広大なるネットの片隅にまだ残っててもイイか、寺。tokuさんなんか「若い人呼び込みましょうよ」なんて言ってたし(笑)。
ぼちぼちここまで来た寺です。今後もぼちぼちでヨロシクです。オフで言っていた通り、またチャットもお誘い掛けます。お時間が合えばその時にもヨロシク!

追加。これまでの寺オフ会リスト

#東京旅行と寺オフ会・土産編
2015/10/03

昨日の続き。東京旅行でのお土産。
其の一。本。『人間仮免中 』卯月妙子。

読了後、興奮気味でつぶやいたTweetを載せておきます。
今回ジュンク堂で出会えたエッセイ漫画。
この人の昔の作品持ってるんだ(それも東京で偶然見つけて買った)。新作が出ていたとは知らなかった。正直万人には勧められない。18禁どころか30禁くらいだ。でも、こんなにも愚かで純粋でひたむきで生きることと愛することに貪欲な女を私は他に知らない。生きて描いていて欲しい。


持ってたのは『実録企画モノ』ってので、これは上より更に更に更にお薦めしません。キョーレツです。キモチワルイとすら言ってしまおう。捨てようかなとも思いました(転勤族だかんね)。でも、この個性、この人格、凄まじき生き様。二度とは出会えぬとも感じました。つまり一度読んだら心の底に粘りついて忘れられない漫画家なのです。摩訶不思議なる縁で(やっぱ首都の本屋は一味違うゼ)もう一度出会えて本当に良かった。生きててくれてありがとう。絵柄が諸事情(ネタバレになるので書かない)で以前より随分簡略化されています。でも、私は今の絵の方が好き。大好き。最高の土産になりました。

其の二。先ずは画像をご覧下さい。

キュウリ。実は……

モネ展で寄った東京都美術館の常設土産コーナーにて見つけちゃった文鎮です。長さ約17cm、重さも量ってみました。378g。当然ながら鉄製です。本といいコレといい、なんで重い物ばかり買っちゃうのだ、私?

このキュウリには後日談があります。帰りの飛行機……と言えばお分かりでしょう。ハイ。手荷物検査で見事に引っかかりました。係のお姉さんが透視(?)カメラじーっと見つめて、無言で上司の人手招きして、二人でじと目。「底の方に何か入ってますよね?」「はい?(←買ったのが初日なのでとうに忘れている鳥頭)」「何か鉄製の細長い物が」ダンナと二人でハモりましたわ。「あぁ、文鎮だー!」
リーチは短いですが、握り勝手といい、ほど良い重さ固さといい、実に立派な凶器です。空港お流石。どうなることかと思いましたが、ちょっとのやりとりの後、普通に手荷物で通してもらえました。ありがとう、お姉さん。真人間に見えたってことだぞ。私、喜ぶ。この気持ちまで全てが土産サ。

其の三。番外。私からの土産。

これは、昨日書いた通り「これが最後のオフになるかなー」と覚悟しておりましたもので、何か形として残るものを、とね。14年はネットとしてはとても長い年月です。少なくとも管理人にはそうです。(大昔のオフで「寺に出会えて感謝」的文面のお手紙を手渡して頂いたことがあります。今も残っています。覚えています。……私は筆下手ですし、まぁ若い人の真似しちゃアカンよねw)。『男女問わず、邪魔にならず、目立ちもせず、どこか部屋の片隅で笑っている。役には立たず、苦にもされず、さういうものを私はやりたひ』そういう理由で私も同じ物を買っています。今回集まった4人おそろいなのであります(参加希望だった方にもあげたかったな、残心)。

ちな、「寺」というキーワードではマジにナニも思いつかなかったので、100%私の趣味でのチョイスです。私の好きな映画のロビーボーイに雰囲気が似ているのですよ、ただそんだけ。以上、お土産の話でした。

『グランド・ブダペスト・ホテル』
町山智浩の映画解説を合わせてどうぞ(ググってね)。

#あっけらかん
2015/10/06

歯医者に行く。冠が古くなってるとかで結構回数かかりそう。虫歯はなかったので自らに拍手して祝う。

で、本題。歯医者で思いだした常連美容院の美容師さんの話。この女性、とにかくよくしゃべる。同居してるお舅さん、姑さん、ご主人に小学生の子どもが二人。要約すると愚痴である。8割方がトメさんの愚痴。おいおい、そんなにそこまでもしゃべってしまって大丈夫か? アンタ遠距離通勤か? と心配になるくらいにはよぅしゃべる。あっけらかんとしていて、愚痴と言ってもネチコクはなく総じて面白い人なのだが、この人がとてつもなく歯医者嫌いらしいのである。

「1回行って、死ぬほど痛くって、他の歯も全部悪いよって言われて、イヤんなってそのまま行くの止めちゃった〜(あはは」だそうだで、
「お金も掛かるし、そのままかれこれ20年くらい歯医者にはかかっていない」とのことで、
「え? それで虫歯痛んだりしないの?」って訊いたら、
「痛み止めしこたま飲んで我慢してたら、そのうち痛み消えますよー(わっはっは」なんだってさ。
それって既に歯の神経までも……じゃあないのか? あっけらかんにも程がある。

ここまで読んで下さった方が心配する点はただ一つであろう。私も思わず尋ねてしまった。
「あのー、お子さんは? 歯医者連れて行ってる?」
「大丈夫ですよ−。姑さんが連れて行きます。私、仕事があるからー」
トメさん、グッジョブ。良い姑さんではないか。8割方が私の脳内でほぼチャラになった瞬間である。

皆さん、イヤだけど行こうね、歯医者。あっけらかんとしているときっと末は総入れ歯だぞい。

#アニメと母と私と
2015/10/11

先日仲間内チャットで「執筆は習慣だ」という名言を頂いた。私も日記くらいは更新してリハビリと習慣化を目指してみたいものである。が、日記と言ってもなにせ日々平坦でネタに窮する。しょうがないので昔でも振り返ってみようかと思う。
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私のアニメとの出会いは『みなしごハッチ』だったらしい。ハッチが始まると自分で子供用の小さな椅子をえっちら抱えてテレビの前に陣取り、見ながらしくしく泣き始める。母はそれを見て「お、こいつ意味が分かって見てやがる」と驚いたらしい。そして「毎回毎回泣くくせに何故毎週いそいそとテレビの前に椅子を運ぶ?」と私の知性と性格についていかにも母親らしく憂えたらしい。ハッチのストーリーは覚えているが(確かに毎度哀しい話だった)、その自分の行動については一切全く記憶にない。
wikiで調べるとハッチの放送開始は1970年4月7日とある。私は4歳なりたてだ。知性レベルは我ながら未だ謎に満ちており、性格についてはも、こんなんなってしもうた。

母はアニメが好きではない。でも、一人っ子なのでチャンネルの取り合いもなくアニメは沢山見せて貰えた。アニメは夕食時の7時開始が多かった。食卓から母も一緒に見ることになる。私が見てきた歴代アニメの中で母が唯一褒めたのは『銀河鉄道999』。マジにこれのみ。母の好みの頑なさと松本零士の凄さを感じる。

母の理想に反して、中学に入ろうが、高校生になろうが、大学で一人暮らしを始めようが(ビデオデッキ2台を買って駆使して加速した)、とうとう就職してまた実家に戻っても、私のアニメ好きは変わらなかった。ビデオデッキを持ち帰ったので、時間的都合で見られないアニメは録画していた。ビデオは母の不興をかった。現在も母はDVDデッキ等持たない。

ある日、職場でとても疲れて帰って来てナニもする気が起きずにぐったりしていると、母がこう宣った。「ほら、さっさとアニメを見なさい。あんたはアニメ見れば機嫌が直るアホなんだから」非道い言われようだなと思いつつ、何度も促されるので録画再生した。覚えているぞ。忘れるものか。再放送の『聖闘士星矢』で、よりにもよってドラゴン紫龍が上半身ずばっと脱いでたね。母が「この人何故脱ぐの?」と至極真っ当な質問をしてきたので、「背中の竜の刺青を見せびらかすため」と私も冷静を装いつつ真面目に応対した。多少赤面していたことであろうと推察される。

で、見終わった後なんだが(つまりたった30分後!)。疲れは何処かへ吹っ飛び、母の言葉通りまんまと上機嫌に転じてしまった私がいた。「食欲湧かない」と言っていた遅い夕飯をばくばく食べた。母が「それ見たことか」と言わんばかりにふふんと鼻先で笑い、私はこの母の娘なのである、という空恐ろしさと感慨にしくしくと泣けてきそうになったのである。

ふふんと嗤ったあの日の母をそろそろ追い越しそうな歳になった私だが、今もやっぱりアニメを見ている。

#出雲・松江旅行記(1)日御碕
2015/10/15

10月12日から14日の二泊三日で出雲・松江に行ってきました。私は出雲が3度目、松江は2度目です。ダンナはどちらも初めて。ダンナの車で行ったのですが、初日早朝に出て高速をひたすら走り、宿泊地に着いたのは夕方でした(途中ちょっとだけ窯元に寄った)。私が運転免許を持たないので、長距離を一人で運転し続けたダンナは完全グロッキー。とてもとても気の毒でした。温泉にも入らず寝オチしてしまったダンナちゃんを横目に露天風呂を満喫し、旅館の部屋で一人地酒を呑んでいる悪い女房。それが私。そんな私。


旅行二日目。快晴。先ずはとにかく日御碕です。何故かというと、前述したとおり私は日御碕を1度訪れたことがあり(両親との家族旅行で当時私は大学生だった)、母はその後もう1度日御碕に行っているのですが、その母が「1度目に観た日御碕が良かった。2度目は岩と波の感じが違っていて悪かった」とずっとこぼしていたのです。日御碕は岩が特徴的で(ぐぐったら『柱状節理』というようだ)、岩とそれに当たる波の感じが良いのです。母の言葉から私は海の満潮・干潮が景観に影響するのではないかと考えました。干潮時間を調べました。よって朝から行きました。


こんな岩。これに波が当たってしゅわしゅわーな感じで白い泡となって伝い降りる。それがとにかく美しかったので、是非ダンナにも見せてあげたかったのですが……。

結果、イマイチ。ダンナの推察によると「干潮で、しかもうねりの時でないといけないんじゃないか?」と。流石日本海。この日は風が強く、波の間隔が短かったのでした。ソコマデハ オモイ イタラナカッタヨorz。



気を取り直して、いざ日御碕灯台へ。ウチのダンナは灯台好きです。マニアです。よく考えたら、灯台さえあれば充分だった。ダンナめっちゃ上機嫌。昨日の疲れもなんのその。日本一の高さを誇る石造灯台、100段以上の螺旋階段、登ったったぜっっ。

>なお、内部階段は勾配が急な上に、対面通行なのに幅が十分でなく、昇降には危険が伴う。特に最上階への18段は勾配が極めて急な梯子状の階段となっており、降りる際には細心の注意が必要である。靴を脱いでの参観となるため、階段、展望回廊の両者において非常に滑りやすいことにも注意されたい。小児、高齢者の参観は推奨出来ない。(wikiより)


これがwikiにもある最上階の18段。超急勾配。一段一段の幅が狭い。螺旋階段ってなんとなく目が回る。運動不足なので辛い。運動音痴なのでコワイ。ダンナ嗤う。頂上に着いたら、流石の絶景、高さ充分。急に元気になる私。反対に高所恐怖症の気のあるダンナちゃんは及び腰に。私嗤う。登りより下りが更に怖かった。地上に戻った時、私の膝が大いに嗤う。

比較資料。他階段。これでも充分に急勾配です。

ちなみに。降りる時、中腹ですれ違った若いご夫婦があって、ご主人は1歳くらいの赤ちゃんをおんぶ紐もなしに抱いていました。「若さって凄ぇ!」と思いました。つまりご主人は少なくとも片手が確実に塞がっており、手摺りを掴みにくいと言うことだけど、アレ、無事に登り切れたのかな? 老婆心ながら「どうぞお気を付けて〜」って言っちゃったよ。我が人生に日御碕灯台登頂3度目はきっとあるまい。


おまけ。ダンナが超ラブラブしていた日御碕灯台型のプリチーな公衆電話BOXで〆。

#出雲・松江旅行記(2)出雲大社
2015/10/16

旅行記・出雲大社編です。昨日書いた通り、私は3度目の訪問になります。故に前置きしておきますが、一般的な旅日記にはなりません。ある意味見飽きているんだもの。よって、大学時代の2回の訪問時(かれこれ30年前!)にはなかったもの、気づかなかったものを書いていきます。


はい。一般的によく見かける出雲大社なお写真です。繰りかえしますが3度目です。取った写真にも「見飽きてるんだ〜感」が滲んでいます。ちなみに、この日本トップクラスな大注連縄(長さ13m、周囲9m、重さ5t:wiki調べ)があるのは本殿ではありません。神楽殿っす。結婚式?とかやるようです。森見登美彦『四畳半神話大系』冒頭にありましたように広く「神無月」と呼ばれている旧暦10月が出雲では「神在月」になります。八百万の神々が集結してやるのは「縁結び」です。マジで他にやることはナイんか!?©森見登美彦

丁度、花嫁さんがいらっしゃいました。八百万の神々仕事してるな。どうぞ末永くお幸せに!

どデカい縄には細かい網が張ってあり、小銭が入っていました。どうやって入れるの??? 謎です。


さて、本殿ですが、只今『平成の大遷宮』中。詳しく知りたい人は好きなだけぐぐればイイじゃない。要は工事中でして。ま、どっちにしろ昔も公開はされていなかった気がするのですが、代わりに興味深いものがありました。

工事現場に天皇陛下と宮家からの賜金立て札。出雲と言えば古事記、神話の里。そして天皇は現人神。やはり深い関わりがあるのでしょう。とてもいいものを見ました。

そういう繋がりで、でしょうか? 30年前には見た覚えのないものが他にもどどーんとあったよ。国旗。日の丸。旗の広さはなんと畳75枚分、重さは49kg、高さは古事に由来する(らしい。ぐぐった)47m。こんなデカいの初めて見たぜ。ど迫力。神楽殿がなんか迫力負けしてるぅ。

アーンド、国旗とくれば次は国歌だ。これも前にはなかった『さざれ石』

>君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで
折角なので、無理矢理に国旗も入れたアングルにて撮影。
「そうかー、これがさざれ石かー。そういや昨日見た日御碕の石、さざれってつまりアレだったんだぁー」みたいにワタクシ勝手にワクテカ早合点したのですが。

由来石碑をきちんと読むと岐阜県の石だっつーことでした。確かに形状が全然違います。大体「さざれ石が巌となる」んだもんね。歌詞の意味を今更把握しちゃったよ。
ここで、さざれ石を見ながらのダンナとの会話をメモっておきたく思います。
   夫「全然苔むしてないんだね」
   私「むすまで、なんだから、むしろむしたらアカンのじゃないかい?」


嗚呼。前置きした通り、とても一般的でない旅行記となってしまいました。すまんこっちゃの。

お詫びに。多分本殿。いや、違うかも。よぅワカランちん。

そして、とっても古事記的なオブジェ。大国主命と言えばな因幡の白兎もいたけど、私的に好みではなかったので割愛。可愛すぎるんだよー。媚びるなよー。

おまけ。おみくじまみれにされていた木。気の毒。なれど、私も結んできました。『やる気さえ出せばことごとく吉』みたいな、いかにも私に向けた贈る言葉のような内容のおみくじだったのが印象的。自戒すべし。いや、すべき。


余談。私達が行ったのは13日でしたが、前日の12日(体育の日)には周辺で駅伝が開催されていたそうです。旅館の人が「12日だったら交通規制と渋滞で出雲大社には到底近寄れなかったでしょうねー」と言っていました。駅伝とな? 全然知りませんでした。大層運に恵まれた私達だったのでした。

追記:恥を晒させて頂きます。
+++私、国歌の歌詞って幼少時に耳コピで覚えた口で、今回初めて歌詞を活字で見た、ンだと思います。耳コピ版・私の間違ってる歌詞をどうぞご笑覧下さい。
>君が代は 千代に八千代に さざれ石の 岩音鳴りて 苔のむすまで
子どもは「巌」知らないわ−。意味的に通じないこともないし、そもそも音は合ってるから誰も正してくれないしー。歌詞は目でも見るべきだな−と思ったことですorz。

#出雲・松江旅行記(3)立久恵峡の五百羅漢
2015/10/17

立久恵峡。ああ吾が魂の故郷。私に立久恵峡を語らせると長くなりますんで、心してお付き合い頂ければ幸いです。

立久恵峡と私の出会いは30年前に遡ります。大学生だった私は友人宅に数人で集まって飲み会していました。宴もたけなわの2時頃でしたでしょうか。私ぽつりと言ったんです。「あー、明日から旅に出るわー。始発で行くからもう帰るわー」みんなは酔った私の冗談だと思ったようです。確かに酔った勢いです。が、帰宅後私はJRの時刻表で出雲行きを調べ、ちまちま貯めてた金を取り出し、大学の受講票と見比べて「イケルぜ」とほくそ笑みました。そしていそいそと荷作りをして、翌朝の始発列車に飛び乗ったのです。

立久恵峡に行こうと思ったのは不思議なご縁。立ち寄った土産屋に置かれていた観光ちらしに小さく「五百羅漢」の字があったのです。バスに揺られて行きました。メジャー観光地でないことは分かっていたつもりでしたが、バスはどんどん山間いに入っていきます。途中から「自由乗降区間」とかになるんですよ。数人居た乗客も全部降りて行っちゃって、人っ子一人、家一軒もナニもナイ。着いた時間が15時過ぎ。携帯のない時代です。バス停の時刻表ガン見。良かったよー、まだ帰りの便が2本あるよー。

そんな懐かしのバス停と愛し恋しや五百羅漢。

前置き終わり。さて今回。実は五百羅漢まで辿り着くのにすっごい苦労を致しました。何故かってぇと民宿が建っていたのです。そんでもって30年前の(しかもこのワタクシの!)記憶なんて全くあてにゃあならんかったのです。

げに憎かりし民宿(笑)。「ナーンニモナイ場所」という当時の印象が強すぎて、私とダンナを彷徨わせます。

そしてやっと見つけた案内図。これを見つけるまで小一時間ぐるぐるしてた。地図によると吊り橋を渡らないとアカンのよ! でも、私にはこの橋の記憶が一切残っていなかったっつー←大敗因


狐に化かされたような心持ちで橋を渡り……
鬱蒼とした山道をしばし歩いて……。

コレー! キタコレー!! 私の記憶とやっと一致してくれた、これぞ立久恵峡の五百羅漢。

崖の高いところまで羅漢さんがおあします。
赤いお帽子の羅漢さんも。

千体仏は『只今大募集中(「大」が付くのが味ですねw)』。『一体弐萬五千円ですが数百年は保存できます』そうですよ。記憶では『貴方や貴方の知る人によく似た羅漢さんがきっといます。探してみて下さい』との札があったような。きっと一体一体にそれぞれの想いが込められて、そうしてここに在るのでしょう。

見回せば、本当に一体毎に個性があって表情豊かで、いつまでも見ていたくなります。

イイ感じに木の後光を背負った羅漢さん。

花が供えられた羅漢さん。赤いよだれかけも真新しい。

また吊り橋を渡って戻ります。実は立久恵峡は3度目でして、1度目が一人旅。2度目はその1年後くらいに両親と来ています。その時母に叱られたんですよねぇ。「こんなトコ若い娘が一人で来ちゃいかんだろ、この馬鹿」って。当時も薄々神妙に同意してはいたんですが、今回はハゲシク同意です。ココ若い娘が一人じゃ絶対来ちゃいかんw。生まれながらの無鉄砲で小供の時から馬鹿ばかりしている。御仏のお導きが欲しいのぅ。

川に映り込んだ空。
本当に何故でしょう? 初めて訪れた時から胸が痛くなるほどに大好きな場所です。
ああ、またね。またいつか、ね。

#出雲・松江旅行記(4)宍道湖の夕陽と江島大橋(ベタ踏み橋)
2015/10/18

タイトルは4じゃが、旅はまだ二日目の夕方です。立久恵峡で思わぬ時間を食ってしまった私達、慌てふためいて宍道湖へと向かいます。MISSION「夕焼けの絶景スポット嫁ヶ島を激写せよ」。立久恵峡は私の趣味でしたが、これはダンナの望み……というか、私も宍道湖大好きですが、以前にも来ているので、初見のダンナほどの情熱がないのです。なら立久恵峡へのお前の尋常ならざる執着は何だ? というご意見は一切受け付けませんのであしからず。

さて、日暮れ前になんとか駆けつけてみたら、湖畔には撮影スポットが作られてたよ。
わざわざ季節毎のベストポジションまで詳しく指示されている看板。意気込みを感じます。

意気込みに溢れた方々。三脚付き本格カメラな方も多数。

私撮影嫁ヶ島。iPhoneカメラで逆光は辛いよ。

陽が沈んでったよ。旅行二日目が終わります。

ではここで、旅館からのこの日の自分Tweet振り返り。
>露天風呂で、モンモン入り4才男児連れのママさんとご一緒になった。これも旅の土産だと思い、子どもを介して話しかけてみる。気のいいヤンママさんだったよ

>あ、日本酒ソムリエの心意気も見た←のんべ。 っつーか、私よりザルで酒通のおばちゃん(ワイン通でもあった)とソムリエの会話を横から聞いてただけなんだが。通の会話はツマミになるなぁ
……ナニやってんだかなー、じーぶーんー。


日付代わって三日目。二泊三日の旅なので今日はおうちに帰るのです。さっさと帰途につくべきなのです。だって、帰り道長いんだから。でも、私達夫婦には各々の嗜好にまみれきった心残りの場所があと二つ……。

軍配は謹みでなく欲望側に上った! ダンナご所望、江島大橋(ベタ踏み橋)。島根県側は6.1 %、鳥取県側は5.1 %の勾配(wiki調べ)が有名。ラーメンだかチャーハンだかな構造形式でも有名……なんでしょう。私は興味ねぇので各自での対応をお願いします。看板を拡大したようにまるでジェットコースターみたいな凄い写真をダンナも撮りたかったようですが。

宍道湖の夕陽と同様にiPhoneカメラではこれが精一杯。それでもダンナは大喜びで車で橋を往復しました。「橋を渡る間、車内からiPhoneでずっと動画を撮影していて! なるべく坂が急に見えるように工夫もしてね!」との切なる願いを叶えるべく助手席で悪戦苦闘した私。振り返れば、肉眼での橋を渡った記憶が一切皆無なのでした。いや、全然構わない。ベタ踏み橋景観は全てことごとくダンナちゃんのものだ。

橋マニアの為の耳寄り情報。橋のすぐ傍の無料駐車場、隣接するコンビニ。『江島大橋(ベタ踏み橋)のチラシ、ファミリーマート店内にあります』ですぜ。立ち寄ってチラシをゲットしましょう。ダンナちゃんみたいな喜色満面の笑みにて是非どうぞー。

問題:出雲・松江旅行記も次回最終回です。では、最後に訪れた、私の嗜好にまみれた場所とはどこでしょう?

#出雲・松江旅行記(5)黄泉比良坂
2015/10/22

旅の最後は「黄泉比良坂(よもつひらさか)」でございます。もうまんま私の趣味です。しかし、五百羅漢といい、黄泉比良坂といい、カーナビに載っちゃいないですねぇ。立久恵峡程ではありませんでしたが、辿り着くのにちょいと手間取りました。

先ずは黄泉比良坂にゆかりのある揖夜(いや)神社へ。
揖夜神社入り口には黄泉比良坂へのアクセスが書いてあります。お、車で3分とな? ナイス!

さて、私、古事記大好きなんですが、アホだから詳細を覚えていません。従って間違っていたらゴメンなさいですが、イザナギとイザナミという夫婦の神がおり、イザナギが矛で混沌をかき混ぜて幾つかの島を作ります。これが日本国。なんとなく旧約聖書の天地創造に似ています。続いて地水火風その他モロモロを司る多くの神々をイザナミはぽろぽろ産みますが、火の神を産んだとき、大火傷を負って死んでしまいました(イザナギはこれに腹を立て、我が子である火の神をぬっ殺します。めっちゃ自分勝手な創造主であるトコも旧約聖書っぽいですね)。
さて。イザナミは死んだので黄泉の国(冥界)に行っちゃいました。生者の住む現世と死者の住む異界との境目にあるとされる坂、これが黄泉比良坂なのです。じゃーん。……な割に、見つけた観光案内板。めっちゃふつー。

さあさあ、これが黄泉比良坂。
イザナギはイザナミが忘れられず、地の底にある黄泉へと妻を迎えに行きます。しかし時既に遅し。イザナミは黄泉の国の食べ物を食べてしまっていました。地上へは戻れないのです。でも、「地上に出るまで決して私の姿を見ないでね」という約束の元、二人で現世へ帰ることになります。途中、ちゃんと愛する妻が付いてきているかどうかが心配になったイザナギはついつい約束を破って振り返ってしまいます。

冥府との境界なのに、結構うららかな黄泉比良坂周辺。

案内板が雑誌の『ムー』みたいなのは何故?

こっちの案内板の方が古事記の気分が出ますね。


さて。……このあらすじ、他でも聞いたことありませんか? ギリシャ神話のオルフェウスの物語にクリソツです。で、オルフェウスの妻エウリュディケはそのまま泣く泣く冥界へ戻されるだけ、だったと記憶します。が、イザナミはここからが違います。
「あれほど見ないでと言ったのに、よくも私に恥をかかせやがったな、ぶっ殺す!」
イザナミの命令で黄泉醜女(よもつしこめ)ほか化け物軍団がイザナギを追いかけてきます。イザナギはなんとか黄泉比良坂まで逃げのび、そこにあった桃の木の実を投げて追手を退け、ラスボス・イザナミの突進も千引の岩(ちびきのいわ:動かすのに千人力を必要とするような巨石)を黄泉比良坂に置いて道を塞ぎました。

コワイですね。エウリュディケとのこの落差はなに? ヤマトナデシコ魂どこ行った? と思ってしまいますが、イザナミは体中に蛆がたかって腐敗した醜い姿を振り返った夫に見られたんです。その醜さに夫はどん引きして逃げたのです。女心、でしょうかねぇ。

画像が分かりにくいですが、3本の桃の木。

解説板がありませんでしたが、千引の岩、じゃないかな? 千人力もは要らなそう。

千引の岩で道を閉ざされたイザナミは怒って「毎日人を1000人殺してやる」と呪いの言葉を言い、イザナギは「それならば毎日1500人の子供が生まれるようにしてやるもんねー」と言い返します。神様の夫婦ゲンカが元で私達日本人は死ぬんだよ。理不尽。

この道を抜けて、

伊賦夜坂(いふやさか)です。『古事記』では「黄泉比良坂は、今、出雲国の伊賦夜坂と謂うなり」と記されているようです。
伊賦夜坂をるんるん気分で歩く私。

終点。ここにも案内板が。この写真では読めませんが「徒歩5分」とあります。近くには民家も建ち並び、黄泉の国に向かうおどろおどろしい雰囲気はあまりしません。っつーか、黄泉の国は地の底なんじゃなかったっけ? その辺、謎。ほど良いお散歩コースです。

黄泉比良坂石柱と標準身長のダンナ。しめ縄の低さが分かりやすい。


無駄話。伊賦夜坂を歩いているとき、ダンナに「あんたさ、ここって折角なら夜に来たかったんじゃないの?」と問われてしまいました。五百羅漢、黄泉比良坂と来て、私が心霊スポットマニアであるとの誤解を招いてしまったようです。ちっがーう。違うんだよぉー。宮崎旅行では天の岩戸も行ったでしょ? あれ心霊スポットじゃなかったでしょ? っていうか、五百羅漢も黄泉比良坂も夜になんて絶対行きたくないわ! 怖いわ! 泣くぞ!

以上、「出雲・松江旅行記」。これにて終わりと致します。

#黄泉比良坂行ってはみたが、じゃあさ、黄泉とは何処なんだい?
2015/10/23

出雲旅行で黄泉比良坂に行ってきました私ですが(昨日の日記参照のコト)、
黄泉比良坂と黄泉の国の位置関係がどうしてもどうしても気になったので、私の怪しい(w)記憶の元、図を書いて考察(って程のものでもありませんが)してみました。折角写真があるので入れたかったもので、縮尺が実際とは異なりますが、まぁ、おおまかにはこんな感じ。

※図をクリックすると拡大版が開きます。どなたか詳しい方がいらしたら是非ご教授下さい。

私的考察としては、古事記に寄る結界と千引の岩の位置、賽の神の配置。また、黄泉の国は地の底であるという記述から、現在は低地に水が溜まって池になっている、の・で・はぁぁ? と受け取りましたが。……さて、「黄泉の国が水の底」という記述は読んだ覚えが皆無なので、全くの見当外れに終わっているような気がします。

ちなみに、水関係だと、
>黄泉から現世に戻ってきたイザナギが、「なんと汚れた国に行って来たことか。禊ぎをせねばならない」と宣い、筑紫国の日向、小門の阿波岐原にてその身を清めました。
……と続きっぽい文はあります。筑紫っつーと福岡県っすよ。流石は神様。一跨ぎしたか? 「筑紫国の日向」っつーとまた更に複雑になるようで(日向が宮崎県の高千穂になる、のか? ググってもちっとも意味がワカラン)、しかも、禊ぎをしたのは川(たーしーかー)なんだよなー。池、まったく関係ねぇ。ホント、考えれば考えるほどにわかりまへん。

まぁ、
>島根県松江市東出雲町は、黄泉比良坂があった場所として、1940年に「神蹟黄泉比良坂伊賦夜坂伝説地」の石碑を同町揖屋に建立した。同地には、千引の岩とされる巨石も置いてある。近くには、イザナミを祀る揖夜神社もある。(wikiより)
なのだし、1940年は昭和15年(!)なので、細かいことを気にしていたら、歴史ロマンはないのかもしれませんね。

今日は朝起きてから(ってか、昨夜から夢の中でネチコク考えてたw)、洗濯して、あとはずーっとこれの画像を作ってみたり、本をパラ見したり、ググったりして、とても楽しい時間を過ごしました。その所為で予約していた歯医者に遅刻しそうになりましたw。
あー、楽しい一日だった。

#皮膚が壊滅的に弱い人が水虫にかからない為の心得
2015/10/27

こういうタイトルで、でもこれ日記で、長くなってて申し訳ないので、重要箇所を太字にしました。太字部分のみでも読んで完治、根治して下さる方がいますように。

皮膚が壊滅的に弱い人は存在します。私のような奴です。当時まだ珍しかった「アトピー」と診断されたのは幼稚園の時です。現在50一歩手前、と言えば、分かる人には分かって頂けるでしょう。中学生になれば治る、成人になれば治る、その都度希望を持たされましたが、結果は成人後の方がアトピーでの入院を数回経験するなどし「もう諦めて一生付き合え」との命を受けました。もちろん医者から。特効薬の期待が待たれます。が。

まぁ、特効薬に期待している場合ではありません、現在の自分に出来うる対処をしましょう。アトピー患者には見た目の所為で、でいろんな誘惑や勧誘があります。健康食品や高額掃除機、宗教などです。好き好きですが、新たな破滅への道に誘導されてしまったりも致します。平凡・平静(時にはワラにも縋りたくなるので、そんな人情をついてくるので、弱っている時ほど重々に注意しましょう)が肝要です。

皮膚が壊滅的に弱い人が一番かかりやすく、根治しにくいものは「水虫」かと思います。私の場合、父が保菌者でした。でも、長らく移りませんでした。何故か? 私が冷え性で、真夏でも靴下を手放さない(風呂と布団に入る時のみ靴下を脱ぐ)人だったからです。事実、母からの「何故お前は真夏でも靴下を脱がない? 見ていて暑苦しいんじゃー!!」との今思えば非道い言いがかりの元、靴下を脱ぎ捨てた夏の日がありました。たった1ヶ月で速効、父の水虫を頂戴しました。アトピーで元から掛かっていた皮膚科のお医者さんに「足がヘンなんです」「ん? どれどれ?」つって、皮膚の皮採取されて、顕微鏡。「あー、折角だからキミにも見せてあげる。これ水虫菌」。顕微鏡の中で蠢く菌はそのまま自分の足にて蠢きたるものです。思春期の私、大ショック。そして、その時先生の言った言葉をよく覚えています。
「貴女は皮膚が弱いから普通の人より数段に感染しやすいの。それをよく覚えておいてね。でも大丈夫。水虫は治るよ。発見が速いほど早く治るよ」

先生は恥ずかしがらず、また、たかがと軽視せず、とにかく医者の処方する薬をきちんと塗ること、また、「見た目には収まっていても潜伏菌があるかもしれない。軽度なら(その時の私の場合)3ヶ月。重度なら半年から一年。根気強く薬を塗り続けて」と言われました。何故、市販薬でなく医者の処方する薬を、と言及されていたかというと、法に触れない範囲では医者から処方される薬が簡単に申すなら最先端だからです。近年市販薬になった鎮痛薬のロキソニンをだせば、お分かり頂けるでしょうか?
あと、私への「貴女は特別皮膚が弱い」の称号はホンマものであったと思います。父は皮膚が弱く(子どもの頃それで苦労したらしい)、母はアレルギー持ち(食べ物、動物の毛、埃に弱い)でした。両方の遺伝子特性を備えたからこその私です。母は80になりなんとしていますが、生涯、水虫に掛かりません、ようです(まだ存命だから絶対とは言えないけどなw)

二度目の水虫発病は夫との結婚後数ヶ月。その時、掛かっていた病院(前述の医者とは違う)で、「まぁた男から貰ったんかーい!」と思わず知らず言ってしまったワタクシ。その時の医者と看護婦に「何があったの?」的な詮索と嗤いを受けました。まぁ、これは要らぬ事を口走った私が悪い。ですが、こういうお医者もいます。この医者は患部の見かけのみで早々に薬を処方してくれなくなりました。当然再発しました。再発後、最初の医者の言葉に従い、シツコク薬を要求し続けました。同時に、一緒に暮らす夫の菌も駆逐しなくてははならない。説得して、一緒に薬を半年塗り続けて貰いました。夫の協力に感謝します。でなければ、私は別れていたでしょうw。ってか、お前も根治を私に感謝しろよなぁー。

さて、その後、私はアトピーでの入院を数回経験します。たかが皮膚病と呼ばないで下さい。その時の医者の言葉です。「全身が中度以上の火傷状態と変わらない。命に関わります」。ここから著しく私感です。皮膚が痒い、痛い、熱いに留まりません。全身の血液に鉛でも注入されたかと思います。手を一本動かすのも重くてシンドイです。トイレには這っていきます。目は目蓋が腫れあがっているのでほぼ見えません。ついでに視力自体も落ちます。眼球とて皮膚の一部、アレルギーは出ます。喉に出て呼吸困難になるのが喘息です。下手すっと死にます。内臓に出る人もいます。こういうのは外見上見えませんが、分かりやすく顕著で衝撃的な例を出すと頭皮の疾患が顕著な場合、ハゲる人もいます。私が見た人は若い人ばかりでした。気の毒です。口にするもの全てが生臭く感じられます。これが数ヶ月続きます。根治しない人は一生の付き合いです。顔に出る人は一時治ると親しい人から「あぁ、これが本来の顔だったね」と言われます。自分でもそう思えます。滅多にゃない号泣、できますよ。

あ、ついアトピーについて熱く語ってしまいましたが、余談でした。本題です。その時の担当医に言われた言葉です。「皮膚が弱い君はなるべく共同風呂に入るな。確実に水虫を貰う。とにかく風呂の後は足を洗え、若しくは病室に戻ってから何度も水タオルで拭きとれ」とのことでした。

私は学びました。そしてこれまでの教えを守っています。病院や温泉などのスリッパは不特定多数の足と足とのふれあいです。危惧しましょう。

1)スリッパになる病院に行く場合、夏でも少し厚手の靴下を履いて行きましょう。帰りは脱いでいいです。若しくは病院帰りに持参した清潔な靴下に履き替えましょう。

2)温泉に入ったら(みっともないので廊下で靴下履きは出来ませんので)、部屋に戻ってから即座に足を充分に洗うか拭くかして、やっぱり清潔な靴下を履きましょう。

3)同居人に水虫がいたら、話し合って、根治して貰いましょう。その間、お互いに半年は見た目に水虫がなくなっていても薬を塗り続けましょう。

4)やむを得ない入院で風呂に入ったら、当然、足を洗うか拭くかしましょう。風呂用の別スリッパを持っているととてもラクです


今日、私は歯医者でしたが帰りに靴下を履き替えました。先日温泉に行きましたが、当然部屋で足を洗いました。東京旅行の時はビジネスホテルでしたが、靴下をずっと履いていました。他者には奇異に見えるかもしれません。が、それが誰の迷惑になるというのでしょう。2度目以降の水虫感染は現在の所ありません。

#解説、という凄さ
2015/10/29

古い話で恐縮だが(いや、古いからこそそろそろいいか? と、書くことを決めたのだが)、私は2009年3月に拙作の一つを雑誌に掲載して頂いたことがある。「貴方の眠り買います」だ。

その時、推薦者の都築隆広氏からの解説も付けて頂いた。文庫本を買うと巻末には大抵解説が載っている。あの解説だ。私のような素人物書きが自作にプロからの解説を頂戴出来る機会はまたとあるまい。私は解説を舐めるように読んだ。そして、解説、という凄さを理解することになる。一部を許可なく引用させて頂く。

>この小説の長所は眠りを売買するというアイデアの奇抜さにあるのではない。では何かというと、時間という檻に閉じこめられた人間達の孤独と交流とが、客観的な語り口と丁寧な演出で展開されてゆく点だ。
特に、営業マンのつむじが、息子の「ぐるぐるとした渦巻き模様」のつむじに繋がり、過去の記憶へと遡ってゆくところは秀逸である。渦巻きのような形のつむじとは、まるで時計の文字盤を連想させる。時計は「時間」が主題である本作の象徴的アイテムでもある。つむじに腕時計型の端末機、卓袱台、ダイオウイカの目玉やイボ、O村のO……丹念に読んでゆくと、この小説が時計に酷似した円形のもので溢れていることがわかる。読者もその円=「ぐるぐるとした渦巻き」に吸い寄せられるみたいに作中世界へと迷い込んでゆく。  〜「文芸思潮」 ウェーブ第28号より〜


昔書いたものにも関わらず、私は本作を書いていた時の自分の心の動きをかなり詳細に思い出せる。「腕時計型の端末機」についてはどこぞのヘッ○ギアのようなものが順当か? とは思ったものの、大仰な装置だとラストに巧く繋がらない。単にそれだけの理由である。卓袱台は一本気で古風な性格の主人公・M上氏の居間に相応しく感じたので出した。主人公をM上氏としたのは、引用を略させて頂いているが、これも解説にある通り、この話を思いついた時に「星新一みたいだ」と我ながら思ったからである。茶目っ気とご理解願いたい。さてそうなると、他の登場人物もやはりアルファベットの方が座りが良い。私は桜玉吉のエッセイ漫画のファンで、それによく登場する編集者のO村さんが大好きである。こっそりうふふとO村にした。

ダイオウイカは、この話ってSFなのにまったくSFしてないなぁという危惧から生まれた。アタリメとのイカ繋がりである。ダイオウイカが生きて大きな水槽を泳ぐ姿はさも圧巻で、少しは近未来的になるだろうかと考えたのだ。……が、今、その件を読み返すと、生きていることも、身をくねらせて雄大に泳ぐ様も、ちっともさっぱり書かれていない。現在でも標本はある。これでは標本との区別がない。つまり、近未来していない。今更気づいた大ポカである。

私は時間を売るという設定と主人公の昔かたぎな性格・年齢のみを決めた時点でこの話を書き始めた。早々に主人公は離婚している男になっていた。M上氏の気質がそうさせた。すると自然と息子との関係も浮かんでくる。
「つむじの件」は私のダンナのつむじがモデルである。ダンナは短髪で、私はダンナのつむじが大好きだった。仕事から帰ったダンナのつむじの臭いを嗅ぐと汗ばんで、まるで夏休みに遊びから帰ってきた子どものようなお日様と混じり合った、なんとも懐かしい臭いがするのだ。あんまりくんかくんかするとダンナに「ヘンタイ」と言われるし、きっと読者さんにもそう疑われるだろうから最近はやらないが、これが「営業マンと息子のつむじ」の成り立ちである。

さて、このように当時の心情を書いていくと、解説と違うじゃないか、と思われてしまうかもしれない。しかし、私がこの日記のタイトルを「解説、という凄さ」としたのには当然のこと理由がある。

自分ではなんの気なしに勝手に降って湧いてきた、意図的に丹念なカラクリを講じて書いたものではないと思っていた本文全てが、解説既読後に読み返すと確かに「ぐるぐるとした渦巻き=時間の渦=時計」に執念深く絡みつけて書かれていたのである。自分が書いたものなのに、私はそれに全く気づいていなかった。
>ムクはM上氏の前にちょこんと座って真っ黒な目玉で見上げてくる。ファサリ、ファサリと尾が振られる。その尾が地面の砂を履く。M上家の門の横に微妙な半円形の模様が出来た。
なんて一文まである。書いている時には単に「地の文がもうちょっと欲しいな」と思っただけなのだが、これ、この動き、時計の振り子みたいだよ。

私はこの解説を頂いて、小説を書くという不思議を思った。これは脳の不思議でもある。そういえば私の場合、構成を入念に考えてから書き出すものは何故か出来上がりが悪いのだ。ほんのちょっとだけ薄ぼんやりと見えているもの、そのクセ「さあ、もう書き始めちゃおうぜ」と思えるもの。そういう時の方がすらすら書ける。書いた後にも相応に満足する。こういう時って見えていない気で無意識下では見通しているのかもしれない。そういう主軸があるのだと気づかせて頂いた。ただ、そういうのは滅多に来てくれないのが目下の悩みだ。

解説文の中では「小指の色」にも触れて頂いている。これも同じく輪郭無しに書き始めた話である。ラストの一文だけがいやにくっきりと決まっていた。でも、つまり、ということはこれにも主軸はあったのだろう。


最後に、解説を読んだ直後の高揚しまくった自分の日記から抜粋する。
>感無量でありました。「額縁に入った絵」が浮かびました。とても綺麗な額縁に入れて飾って頂いた私の作品、という図です。絵を額に入れると、例え拙い子供の絵でもぐっと引き締まるように、拙作「貴方の眠り買います」も額縁の中に入ったら……。ええ、もうね、あわあわしました。
折角、教えを授けて頂いたのだ。誰かの心の中で額縁に入れて貰えるような作品を書きたい。精進したい。あわあわしている場合ではない。


2015年10月 の日記




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