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 TOP小説てふてふ>第1話「酒屋の幽霊」

 浮き世草紙  てふてふ - 蝶 -
 第一話 「酒屋の幽霊」




 ※8月3日UP分の「前編」を既にお読みいただいた方は、
 第三章から続きをどうぞ。


■■序章

 闇夜だった。草木ばかりか雲影に月も寝入った丑三つ時。それでも、何処ぞの野良公だけは腹を空かせて眠れぬのだろうか。侘びしげな遠吠えが数度聞こえて遠ざかって行った。後は自身の本を捲る紙擦れの音と、膝の上の固まりが漏らすゴロゴロという音。その二つが聞こえるだけである。

 と。木戸を叩く音がした。
「ご免なさいまし、ご免なさいまし……」
 耳を澄ませば、どうも女の声のよう。
 好二郎こうじろうは読みさしの本を閉じると、「うぅん?」と首をひねった。こんな時分に誰だろう? 膝の上で丸くなっているツマミをつまんで畳に降ろすと立ち上がる。ツマミはさも不満げに好二郎を見上げて、「ミャア」と鳴いた。白黒ブチがまだらに散ったひげ面をこしこしと撫で上げ、好二郎の尻の窪みが残る座布団の上へひょいと上がる。そこでくるりと輪を描くとまたまん丸く寝転がった。そんな飼い猫の様子を横目に見つつ、好二郎は部屋を出る。家の者はみな寝静まっているようだ。店のある母屋も、離れも、蔵に至るまでシンとしている。階下に降りる好二郎の足音だけが軋みを含んで夜にのびる。そして、それに唱和するように表戸を遠慮がちに叩く音。

「ご免なさいまし、多賀たが屋さん。どうぞ開けて下さいまし……」

■■一

 多賀屋と云えば、老舗としてそんじょで知られた酒蔵さかぐらである。その庭先で植木ばさみを使う音が小気味よく跳ねる。
「いやー、お天道様がジリジリだ。暑いっすねぇ若旦那」
 升吉しょうきちはハシゴ段の上から声を掛けた。首に下げた手ぬぐいで滴る汗を拭いあげる。
 本来、庭木の剪定といえば、春と秋の年に二度が大がかりであるが、升吉はこの御店おたなの先代の遺した盆栽の仕立ても請け負っている。その都合でちょくちょくと足を運んでは庭の丹精に磨きを掛ける。
「そうだね。梅雨も終りだね」
 縁側に寝ころんだ男が声を返した。白橡しろつるばみに染めた麻の着物をサラリと着流し、腰の辺りに置かれた手にはあい団扇うちわを持っている。もう片方の腕は短髪の頭の下にすけられていて、こちらはちっとも暑そうでない。ひんやりとした日陰の板でのんびり長く伸びている。名を好二郎こうじろうといい、多賀屋の次男坊である。
「なァ、升吉。そこのアオキは毎年冬に真っ赤な実をつけるのに、そっちの奴はちっともつけた試しがない。ありゃあなんでだい? 日当たりの加減なんだろうか?」
 団扇を使って指し示す先に美しい入りの青葉がある。
「雄木と雌木でござんすよ。雄木は実をつけないんで」
「そうか、木のオスメスか」
妻夫めおと木ですね。実が成らねぇからって切り倒そうなんざ、そんなイケズはお考えになっちゃいけませんぜ」
 陽に焼けた顔を縁側に向けると、好二郎が伏したままニヤリと笑んだ。
「余所の夫婦事に口出しなんざしないよ、僕は」
「そうねぇ。好二郎さんには余所様よりご自分の事を考えて貰わないと」
 障子がすいと開いて、これも着物姿の女が縁側に顔を出した。麦茶の入ったコップと水羊羹の皿が二つずつ載った盆を持っている。
「いい加減に縁談をお受けになればよろしいのにね」
 涼やかに笑って好二郎の隣りに膝をつくと、升吉を手招いた。
「升さん、こっちに来て一休みなさいな」
「こりゃあ有り難うございます。それじゃ手と顔を洗って来ます」
 升吉は日に火照った顔をゴシゴシと手ぬぐいでやたらに擦る。ハシゴを降りて庭の隅の井戸へと小走る。

 今日も千代子さんに会えた。
 升吉の胸は高鳴る。千代子は好二郎の兄、吟太郎ぎんたろうの細君である。五才の子持ちとは思えない美貌の人だ。大店おおだなを切り回す才覚といい、升吉のような出入り職人にも当たりの柔らかい物腰といい、出会ったときから既に人妻、所詮が身分違い、遠き高嶺の花なれど、升吉の心のマドンナである。誰に明かすこともない密かな想い。恋心。


「僕は放蕩息子ですからね。悪い浮き名は数知れず。こんな男の所になんぞ好きこのんで来る娘さんもないでしょうよ」
「まぁ、そんな事云って……」
 井戸の冷えた水で顔を流すとさっぱりした。戻ってみると、好二郎は胡座あぐら座で運ばれた麦茶に喉を湿しているところである。千代子は藍の団扇を動かし、好二郎にゆるい風を送っている。
「ほら、升吉。羊羹が冷えてて旨いぞ」
 好二郎に呼ばれて、彼を挟むように升吉も縁側に腰を下ろす。升吉の父も植木職人でこちらの庭とは先代からの付き合いである。好二郎とはタメ年でガキの頃にはこけつまろびつ遊んだ仲だ。その所為かこの若旦那に遠慮はないが、千代子というとどうもいけない。つい及び腰になる。
 あ……。千代子さんの煽いだ風がオレの肌にも当ってる……。
 それだけで、天にも昇る心地の升吉であった。
「好二郎さんだけでなく、升さんもね」
「は、はい? なんですか?」
 水を向けられてどきまぎする。
「意中の人でもいないのかしらって」
「い、意中の人ぉー!? 滅相もない。そんなん居ませんってば居ませんっっ」
「あら、好二郎さん。升さんが赤くなったわよ」
「いや、だって。……今日は暑いッスよねぇ。暑い暑い」
 でまかせに手扇で自分の顔をブンブン煽ぐ升吉である。
「あぁ、義姉ねえさん。こいつはダメだ。ドンだから」
 折角、吉原辺りへもお供に連れて行ってやるのにサ、飲んで喰って騒いでばかりだ。ちっとも艶っぽくなりゃしない。
 好二郎が幼なじみを冷やかす。「あー」だの「うー」だの呻るしかない升吉である。
「お酒と噂話が三度の飯より好きだって云う升吉さんですものねぇ」
 堅物なんだか、緩いんだか。
 千代子もからかい口調で笑う。

「ああ、そうだ。噂と云えばちょいと面白いのがある」
 水羊羹をするりと口中に滑らせて、好二郎が云った。
「こりゃなんです、若旦那。藪から棒に」
「お前が先刻さっきから暑い暑いと云うからさ、涼しい話でも聞かせてやろうかと思ってね」
 庭先からぬるい風が吹いてきた。升吉が刈った草木の汁の青い匂いが嗅ぎ取れる。


「時に、義姉さん。最近、店の酒樽の中身と帳簿の勘定が微妙に食い違いやしませんか?」
「あら、そうなのよ。番頭さんに訊いてみようかと思っていたの」
 ここ数日売った金額以上の酒が樽の中から消えている。目くじらを立てる量ではないが、店を営むものとして帳簿が合わぬのは問題である。好二郎が頭を下げた。
「すみませんね。それ、僕です」
「まぁ、好二郎さんが飲んでたの?」
 千代子は僅かに眉を顰める。そして厳しい顔をしてついでに姿勢も改めた。
「なんてつれない」 そう非難めいた声を出す。
「あのね、うちは酒屋です。それなりに繁盛もしています。そこの若旦那が多少の利き酒をすると云って、咎めようなんて狭い了見は、私にはこれっぽっちもないんですよ。ですから、そうと云ってくれれば酒肴だって用意して……。義理の間柄だからって、そりゃあ遠慮じゃありませんか」
「いや、違います。そうじゃない」
 義姉の早合点を手を振ることで否定する。
「義姉さん、僕は酒を売ったのです。ここのとこ毎晩続けて五合ずつ」
 振っていた手を止め、大きく広げて「五」と示す義弟に千代子が目を丸くした。横で聞いていた升吉も驚く。
「えぇ、若旦那。店で働いてなさるんですかい? こりゃあたまげた!」
 好二郎はなりばかりは立派だが、これがとんだ道楽者でのんき者。外に働き口を求めるでもなく、かといって家の手伝いをするでなく。日がな猫の蚤取りをしたり、川面に釣り糸を垂れたりして太平楽に暮らしている。極楽とんぼなのである。
「槍でも降るんじゃないでしょうねぇ。クワバラだ」
「なんだい。随分じゃないか、升吉」
「だって、好二郎さんお店になんか出ないじゃないの。そんな人がいつ商いをするって云うの?」
 それに。よくぞ訊いてくれましたとばかり好二郎が相好を崩した。
「夜中です」
「夜中?」
「ええ。みんな寝静まった丑三つ時の時分にね、戸口を叩く音がする」
 ご免なさいまし、ご免なさいまし……。
 耳を澄ませば、どうも女の声らしい。
「それで、立ってみたんです。朝の早い者たちをわざわざ起こすのも忍びないと思ったんでね」
 ほら、僕は朝寝でも一向に構わぬ身ですから。
 悪びれもせず、常の放蕩を匂わせるのに、升吉も千代子もこそっと眉を顰めたり、苦笑に口を歪めたり。それに頓着する風もなく好二郎は夜更けの女客の話をする。

■■二

「ご免なさいまし、多賀屋さん。どうぞ開けて下さいまし……」
「はいはい、ただいま」
 か細い声に急かされてかんぬきを外し、戸を開けた。ぽつりと女が立っている。細面の顔には紅を引いた様子もない。通りを歩き、闇に慣れてしまった目には天井の明かりが余程眩しかったのだろうか、右目の辺りを小袖の裾でそっと覆った。
 青白い頬とそれに掛かる長いほつれ毛。その隙間から女が上目で見上げてくるのに。好二郎は我知らずぞくりと背を登る冷えを感じた。明かりがあるにも関わらず、どうも辺りが薄暗い。壁際に並べられた酒樽や棚に並んだ四角の升に至るまで薄墨に滲んだような心地がする。女の衣の袂から生ぬるい霧がねっとりと湧いているような。
「えぇっと。なんのご用でしょう?」
 気を取り直して問いかけると、
「夜分遅くにすみません。お酒をこればかり下さいな」
 そう云って、女は胸に抱えている空徳利とっくりを差し出してきた。結った髪型や声の風情からして、何処ぞのお内儀なのだろう。こんな時分に買い出しとは、酒宴の酒でも切れたのか? それで慌てて買いに来たか?
 不審に思いつつも、好二郎は請われた酒を渡したのである。

「そんなこんなで、僕は酒を売ったんです。が……」
 「が……」の後に引きを持たせる。
「ところがあくる夜も、またその次も、そのひとが酒を買いに来るんだなぁ」
 千代子が間の抜けた顔になる。升吉と顔を見合わせる。
「また夜中に?」
「ええ。真夜中に」
「それ変じゃない?」
「変でしょう?」


 二日、三目、とうとう四日続きで戸を叩く音を聞いた時は、のんき者の好二郎もいささかばかりムッとした。非常識な人もいたもんだ、と不承不承に引き戸をほんの少し開けて覗えば、やっぱり例の女である。徳利を抱えて立っている。
「こんばんは。お酒を売って下さいまし」
 別段この時間でも寝入っているような好二郎ではないが、しかし迷惑な客である。このまま追い返そうかと思う。
「困りますよ、お客さん。出来れば店の開いてる時間に出直して……」
「そんな。折角ここまで来たのです。どうぞ売って下さいまし」
 閉めようとする戸口の端に女の指が取りすがった。折り曲げられた白い指。力の篭もった爪の先は更に白い。爪の根元は青黒かった。白い芋虫のごとく見えた。それらがギギ、ギギギっと戸口を開けなんとして一斉にもがく。その執念に折れて、結局好二郎は戸を開けたのだ。第一、このまま閉めてしまえば女の指が挟まれてしまう。例え挟まれ潰れても、女は酒を手に入れるまで決して戸口を離さないのではないか。そんな悪い予感がしたのである。
「後生ですから売って下さい。お酒を持ち帰らなかったら、あたし、妾……」
 女が徳利を抱きかかえたまま、好二郎を見上げてくる。その顔を見て驚いた。
「お客さん。その目、一体どうなすったんです!?」
 女の右目の縁は赤黒い痣になっていた。目蓋は腫れて、目の玉も内出血の痕だろう。どんよりと濁った卵の黄身の色である。
「あの人が……酒を待ってるんです」
 ツーッと腫れ上がった右目から涙がこぼれた。頬を伝い、顎まで滑る。好二郎を見上げて心持ち仰け反らせた喉元には赤黒い幾重にも巻かれた線がくっきりと浮いていた。
「お酒を売って下さいまし」
 青いかおが酒を請う。


 升吉はブルリと肩を震わせた。柘榴ざくろの目蓋に黄身色の目玉。それが女の半貌ともなれば憐れを越して壮絶だ。
「なんです、そりゃあ。奇妙と云うか、またとびっきりの薄っ気味悪ぃ客だなぁ」
 暑さが少しは退いたかい? 好二郎がニヤリとする。
「でね。その女、何処ぞ見覚えのある顔だったとずっと思っていたんだが、首の痣を見るに至ってやっとのこと思い出した」
 数日前の新聞に女の顔写真があったのだ。番頭や女中達が騒いでいた。
「女将さん、これ柳横町のおきぬさんですよ。店のお客の……」
「あらあら、まぁ」
 千代子は新聞のあらましを読み終えると、ついっと立って帳簿を調べに行ったのだ。この客にツケがなかったかどうか。
「義姉さんは商売人の鑑ですよ」
「あら、冷やかすのね。非道いわ」
 団扇を動かしつつ千代子が拗ねている。そこに升吉が身を乗り出した。
「ち、ちょいと待って下さいよ、若旦那。柳横町のお絹ってぇと、今、噂で持ちきりの……」
 内縁の亭主にくびり殺されたという女の名前ではないか。
「だから、噂話だって云ってるだろうが。最初から」
 これは、その話の裏葉なのサ。
 好二郎が澄ました顔でそう云った。

■■三

 柳横町のお絹というのは、腕の良い髪結い女である。病がちの父親の世話をよくする孝行娘としても知れていたが、その所為か婚期を逃がしてしまっていた。手に確かな職があるため、暮らし向きには困らないが、女の身としては心許ないことである。
 長患いだった父親が先年とうとう亡くなって、お絹は独りぼっちになった。そうして、悪い男に入れ込んだのだ。遊び人の与之助よのすけである。

「知ってますよ。役者崩れだとかいう優男でね、顔はまぁそれ女好みの色男イロだが、飲む打つ買うの三拍子。お絹に稼ぎがあるのをいいことに、女の家に転がり込んでやりたい放題し放題。日がな一日飲んだくれてるってぇんだから、ふてぇ野郎だ」
 日がな一日寝転がってる遊び人は、そういやここにも一人居たっけなぁ。そう思いはしたが、升吉も顔には出さない。
「お絹が惚れ込んでいるのを笠に着て、オラ酒が足りねぇぞ、買ってこいと殴る蹴る。可哀想にお絹は生傷が絶えなかったって話だぁ」
「与之助って人はお絹さんより十は年が下だったそうでね。その所為かお絹さん、同情もあまりされなくて……」
 最近は、髪結いの客もめっきり減っていたとか。千代子が合いの手を入れる。
「年増の色狂いなんて云われてさ。挙げ句に尽した男に殺されちまった。南無三、と」
 どうにも。やりきれぬ話ではあった。
 だが、まぁここまではそこいらに幾らでも転がっている類いの痴情の縺れでもあるのだ。この事件が巷の噂にのぼったのにはよくよくの理由わけがある。

 なんでも。与之助に酒が届くらしいのだ。お絹殺しの罪で警察に即刻逮捕された与之助は、連日取り調べを受けている渦中であった。夜は獄舎に入れられる。当然ながら酒など一滴たりとて中に持ち込める筈もない。勿論差し入れも届かない。それなのに朝、看守が与之助の檻に行くと、この囚人は酒臭い息をして高いびきで寝ている、と云う。
 与之助に問いただせば、「死んだお絹が持ってきた」などという始末。飲んだくれの世迷い事よ、とせせら笑っていた警官達もそのうち青冷めることになる。監視の目を厳しくしたその後もなお、与之助が毎朝酔い潰れていたからである。飲める筈もない場所で、与之助は確かに夜ごと大酒を飲んでいる。そのうち、看守どもが見ただの聞いただの騒ぎ出した。
 徳利を抱えた青白い貌の女が、毎夜与之助の前に現れる。
「おまえさん、お酒を買ってきましたよ」
 ぞっとするようなうら悲しい死人の声に、
「お絹ぅ、お絹ぅー」と、殺した亭主が縋り付く。


「殺された果ても、好いた男に未練が残るか。年増女の醜態よ」
 そう嘲る声もあれば、
「否。お絹は余程与之助の乱暴が怖かったのだろう。自分が死んだと気づかぬままに、暴力怖さの一心で、夜ごと酒を運ぶのであろう」
 そう哀れむ声もある。これがお絹に纏わる噂話の子細である。

 ということは、つまりナニか? その与之助に毎夜届けられる酒というのがこの店の……。
 千代子もそこに気がついたらしい。
「ちょっと、イヤよ、好二郎さんったら、そんな作り話は」
 僅かに顔をしかめる。
「作り事じゃありませんよ。現に酒が減っているでしょ」
 升吉はゴクンと唾を飲み込んだ。千代子の団扇を振る手も止まっている。いつの間にか膝の横に置かれていたそれを好二郎の手が取った。煽ぐでなく、両手に挟んで竹とんぼの要領でクルクル回して手慰みにしている。
「……じゃあ、そのくだんの酒を、若旦那が売ってなさると云うんですかい?」
「そうサ。僕が売ったのさ」
「真夜中に?」
「夜中だねぇ」
「毎晩?」
「うン。毎晩だ」
「そりゃ、お絹じゃないんじゃぁ」
 だって若旦那、直接顔を知らんでしょうに。と疑ったら、団扇の縁でポコンと頭をはたかれた。
「僕を疑うなど、升吉の分際で十年早い!」
 紙製の団扇とは云え、縁でぶたれれば結構痛い。
「アイタぁ。非道いや、若旦那」
「口答えは二十年早い!」
 もう一発叩かれる。次に叩かれるとしたら三十年早いんだろう。三十年となれば、升吉の生きた年数よりも長くなる。そこまでされちゃあ適わないので、升吉は押し黙る。まったくこの坊ちゃんは、升吉に遠慮のえの字もない。チクショウ。口きいてやんねぇぞ。もう。心中大いにふてくされる。
「あれはお絹さんだよ。僕は本人に確かめたからね」
「へ? 幽霊に? 訊いたんですかい? またなんて?」
 先程の誓いを即刻忘れる升吉である。
「そりゃおまえ。貴女を新聞で見ましたよ。ご亭主に殺されたのじゃなかったですか? 世迷いましたか? と訊いたのさ」
「うへぇー!」
 よくも、そう単刀直入に訊けたものだ。

 問われたお絹は痣の痕も生々しい細首をゆうらり揺らして、憂い顔に尋ねたらしい。
「死んだ女に酒は売って頂けませんのかしら?」
「いや、そんなこともありませんがね」
 いつものように徳利に酒を詰め、しっかり栓をして渡してやると、受け取る女の指先がふと好二郎の手に触れた。
「これが冷たいのなんのって。触れた先から瞬時に凍り付くような。しかも冷えているのに乾いてるんだよ」
 あれは流石の僕も気味が悪いと思ったな。その感触を思いだしたらしく、滅多やたらと手を擦る。


「じゃあ、今夜もお絹の幽霊は酒を買いに来るんですかね?」
「来るだろう」
「したら……まぁた売るんですかい?」
「そりゃあ酒屋なんだから、客が来るのに売らぬ道理はあるまいよ」
 第一、急に売らないと云って逆恨みでもされたらどうするんだ。
 さして深刻でもなさそうに好二郎が身震いしてみせる。
「コワイじゃないか」
「店先に塩でも盛ってみればどうかしら?」
 幽霊憑きの店だなんてヘンな噂でも立ったらコトだわ。御店おたなは信用第一ですもの。
 千代子が思案げな顔になる。
「まぁまぁ義姉さん、猶予を下さい。もう少し様子を見ましょうよ」
「だって、好二郎さん」
「僕はあの女が何故亭主に酒を運ぶのか、その訳が知りたいんです」
 死んで尚、酒を買いに来るなんざ、余程の情念があるんでしょう。こいつはね、そうは見れない物見ですよ。
「物見ってねぇ、若旦那……」
 そういやこの好二郎という男、升吉ばかりを噂好きめとさんざっぱら揶揄するが、自分だって世迷い事が大好きな、いわば同穴のむじななのだった。
「あぁた、余所の夫婦事には口出ししないんじゃなかったんですか」
「なに云ってる。口なんぞこれっぽっちも出しちゃいない。酒を出してるだけだろうに」
 口の達者な若旦那である。

■■四

「失礼します。女将さん」
「あら、番頭さん。どうしたの?」
 障子の影から掛けられた声に千代子が後ろを振り返る。
「はい。実は警察の方がお見えになっておりまして」
「まぁ、警察ですって?」
 千代子の首がかしげられる。
「はぁ。柳横町のお絹……覚えておいででしょうか。例のくびり殺されたとかいう髪結い女なんですが」
「ひゃあ、お絹!」
 覚えているもなにも、たった今、その話で持ち切りだったところである。縁側から転がり落ちそうになる。
「素っ頓狂な声を出すない、升吉。……で? 番頭さん、ほら続き」
 またどうして、お絹の件で警察がここに来るんだい?
「それがですねぇ、若旦那」
 番頭が、なんとも不明瞭な顔つきで首をふりふり話し始める。
 なんと。お絹殺しの容疑で捕まっていた与之助が死んだのだそうだ。独房で冷たくなっているのを今朝早くに発見された。死因はアル中のごくつぶしらしく、酔った挙げ句の吐瀉物を喉に詰まらせた窒息死。
「なんでも、与之助がこの店の屋号入りの徳利を抱えて死んでいたんだそうでして。それで刑事さんの仰るにはなにか心当たりはないか、と」
 縁側に座る三人は互いに顔を見合わせる。
 屋号入りの徳利というのは、好二郎が夜中に商売したという……例のアレであるのか。

「こりゃ新展開ですね。どれ、僕がちょっくら相手をしてきましょう」
 好二郎が着物の裾を払ってよっこらせと立ち上がった。千代子と升吉が揃って見上げる。
「わ、若旦那、大丈夫なんですかい? あぁた与之助殺しの罪でよもやお縄じゃないでしょうね!」
「なんで僕がお縄なんだい。阿呆なことを云うんじゃないよ」
「だって、与之助は酒かっくらっておっんだって……。殺人幇助罪なんて、そんなこたぁないんでしょうね!」
 ガキの頃から共に遊んだ幼なじみが、刑務所行きになるなんざ辛すぎるではないか。監獄は惨いところだと云うではないか。警官は横暴極まると聞くではないか。升吉の顔が青くなる。
 幼なじみの心配を余所に、好二郎は太平楽な伸びをした。
「そんな理由で酒屋がいちいち逮捕されてちゃ適わない」
 お前が松の剪定をして、その枝振りの見事さに惹かれた何処ぞのとんちきがそれを使って首を吊った。やいやい升吉、てめぇの所為だぞ、逮捕する。……それくらいの無茶苦茶だ。なァ、升吉。そうだろう?
 好二郎は、「大丈夫だよ」とカラリと笑って、店の方に立って行った。


 好二郎が行き、千代子もまた番頭と店の方に戻っていって、升吉はぽつねんと一人残された。仕事の途中だったことを思いだし、やおら木の幹に寄り掛けたはしご段を登ってみるが、これがさっぱり気が乗らない。パチンパチンと申し訳程度に剪定ばさみの刃を鳴らす。
 この店に、夜ごとお絹の幽霊が酒を求めてくるという。
 こともあろうにその酒を、お絹は与之助に与えるという。自分を殺した男にだ。
 そして、与之助は死んだという。お絹の酒で死んだのだ。
 お絹が夜な夜な与之助に酒を運んでいったのは、世間様の云うとおり与之助に惚れ抜いていた為じゃなく、暴力怖さというのでもなく、つまりは、
「……復讐」
 だったってことか。

 升吉は庭のアオキの青葉を見る。雄木と雌木。男と女。
「おいおい、空しい顛末じゃねぇか」
 思わず知らず独りごちる。
 升吉は商売柄多くの家屋敷を回っているので、顔も広いし噂話にも耳聡い。与之助とお絹の話もさんざっぱらに聞いている。特にお絹に関しては、とある屋敷の女将さんの髪を結っている所を見かけたこともあった。升吉もちょうど仕事を頼まれて、その家の庭にいたのだ。彼女の仕事は手早くって巧かった。髪結いは頼まれた家を何軒も巡って、その先々で仕事をするから、手早ければその分だけ沢山の家を回れる。お足もその分多く稼げる。遠目にもお絹は腕の良い髪結いと思えた。
 女将さんの髪を結い終えた帰りしな、お絹は菓子を幾つか貰っていた。きっと頂き物のお裾分けだったのだろう。お絹は嬉しそうに菓子を受け取って、
「まァ、美味しそうなお菓子だこと。与之助さんと半分こにしなくちゃあ」と喜んでいた。好いた男を心の中に住まわす女の、情のこもった声だった。

 お絹の与之助への尽くしっぷりは、大した細やかさだったという。酒を好きなだけ飲ませてやるのは当然として、蜜柑みかんをと云われれば中の袋までいちいち剥いて与之助の口へ運んでやる。魚を焼けば小骨の一本まで外してやる。
 与之助が働き口を探そうとするのに、日雇いの仕事なんぞで陽に焼けて肌を荒らしたら、折角の色男が台無しだと止めたそうだ。「あんたの一人くらい、あたしが養ってあげるよぅ」と、笑って胸を叩いたという。返す袖で、「どうか妾を捨てないでおくれ」と男の胸に泣いて縋っていたという。
 挙げ句、殺して殺されたのか。夜な夜な化けて出るほどにお絹は与之助を恨んだのか。

 見遣るアオキの入りの葉っぱが、升吉の胸の内にも斑をつける。もの悲しい染みが広がる。
 ここだけの話、升吉はお絹の幽霊談をもっと耳触りの良い話として手前勝手に捕らえていたのだ。酒毒が頭に回って、発作的にお絹をその手に掛けた与之助だが、酔いが覚めれば心から、男は罪を悔いたのではないか。お絹の死を豪とばかりに嘆いたのではないか。そうしてお絹の幽霊はそんな与之助を許したからこそ、男の元に酒を持って毎夜現れたのではあるまいか。

 徳利を抱えた青白い貌の女が、毎夜獄中の与之助の前に現れる。
「おまえさん、お酒を買ってきましたよ」
 ぞっとするようなうら悲しい死人の声に、
「お絹ぅ、お絹ぅー」と、殺した亭主が縋り付く。
 看守が見たという光景である。


「……ふゥん。美談だ」
 おまえと来たら、野暮ったい面に似合わずロマンチックな男だからね。
 好二郎が俯いたままクスリと笑う。警察の応対に長引くのかと思いきや、ちゃっちゃとすぐに戻ってきた。升吉が危惧したような殺人幇助だの、幽霊に酒を売った罪だのには一切問われなかったらしい。
「当たり前だろ。警察ってのは現実主義者の巣窟なんだぜ。幽霊騒ぎになんぞ、耳を貸したりするもんか。……こらツマミ、動くんじゃない」
 好二郎は胡座に乗せたネコの蚤をとっているのだ。ツマミがその手にじゃれて甘えている。
「監獄に届いた酒に毒でも入っていたとかね。そういう即物的な話でない限り、酒の出所の謎はどうあれ、与之助の死は事故死として型どおりに終わるのさ」
「でも、警官が来たんでしょうが」
 升吉の反論に好二郎が頷いた。
「うん。ありゃあきっと根が真面目な刑事さんなんだな」
 蚤取りの手が止まる。小さな顎をくすぐってやると、ツマミはごろごろと喉を鳴らした。
「感じの良い人だったが、だからといって、はい。幽霊の仕業でござい、と云ってやるわけにもいくまいよ」
「はぁー。そりゃまぁ、そうですけどねぇ」
 幽霊に手錠を掛ける事は、確かに誰にも出来るまい。


「……しかし、ちょっと惜しかった」
 与之助が死んだなら、もうお絹は酒を買いに来ないだろう。幽霊というものを一度拝んでみたかった。いかにも俗っぽい願望で多少の後ろめたさはあるし、またおっかなくもあるのだが、若旦那の云うとおり、滅多にない物見だったものをと思う。せめて、もう一日早くこの話を聞いていれば。升吉の正直な気持である。
 好二郎がネコをどかして立ち上がった。
「うン。そう云うだろうと思ったよ。見てみたいなら泊まっておいき」
「へ!?」
 好二郎がお勝手に向かって声を掛ける。
「義姉さん、升吉をね今晩泊めてやりますよ」
「あらそう。だったら、お夕飯増やすように云いつけるわね」
 廊下で勝手に話が進む。
「じゃあ、井戸で手足を洗ってから来るといい」
 そのまま、二階の自室へと上がってしまうのを呼び止めた。
「ちょいと待った! 若旦那、お絹の幽霊はまぁだ来るってんですかい?」
「そりゃ来るだろう」
「だって、与之助を取り殺して、恨みを晴らして、お絹は成仏したんじゃねぇんですか?」
 好二郎が振り返った。つくづく、という風情で幼なじみの顔を見る。
「おまえは……ホントに鈍だなぁ」
 救いがたい鈍だ。馬鹿だ、間抜けだ、ど阿呆だ。
 もう、云いたい放題である。

「あのな、与之助が死んだから。だからお絹は絶対に、今夜やって来るんだろうに」
「ほェ?」
 升吉の間抜けな面をツマミが縁の下から見上げている。
「お絹に酒を買う確かな理由があるのなんざ、今夜だけだよ」
 好二郎はそう云うと、さっさと階段を登っていった。

■■五

 月夜になった。若旦那の云うとおり、お絹の幽霊は本当に今夜も来るのだろうか。夜が更けていくにつれ、疑心暗鬼になってきた升吉である。大体、元の幽霊談からして眉唾ではないのか? この店に幽霊が酒を買いに来るというのは、若旦那の弁だけだし、刑事が来たという話とて、升吉がしかとこの目で確かめたわけではない。店ぐるみで升吉を騙して遊んでいるのやも、と疑い出したらキリがない。全てが怪しく思えてくる。

 千代子が用意してくれた膳で手酌の酒を傾けつつ、升吉は好二郎の顔を覗う。
 なかなか風情な貌である。役者崩れという与之助よりも余程マシなことだろう。美形と云うには物足りなく、花形役者の華もないが、それでも妙に人の目を引く。何事にも世慣れしていてそつなくこなし、ものの道理を分かった貌だ。そういう所作が万事を粋とすげ替えてしまう男だと思う。「放蕩三昧のバカ旦那」と呼ばう世間の声があっても、多く揶揄を含まないのはきっとその所為なのであろう。まことに得な天分と云えた。
 好二郎は窓のさんに腰掛けて、一刻いっとき前に出て行ったツマミの帰りを待っている。白毛に黒の入り具合が珍妙で、どうにも不器量に見えてしまう飼い猫を、好二郎は大いに可愛がっている。「ありゃ、イイ女だ」と手放しに誉める。近所の悪いオス野良がツマミを組み敷いて虐めていると、即座に棒きれを掴んで追っかけていく。仕事を持たない。のらくらである。大馬鹿者のバカ旦那だが、幼なじみを騙してコケにするような、そんな馬鹿野郎ではない。

「なァ、升吉……」
 好二郎が口を開いた。
「おまえさ、幽的ってのは本当にいると思うかい?」
「そりゃ、若旦那。あぁたが見たと云ったんですぜ」
 そう返すと、好二郎はニヤリと笑んだ。
「生きても死んでも人は人。それ以外に変わりはしないと、僕は思うんだけどなぁ」
 三つ子の魂百までと云うが、なんの、死んでも変わらんさ。千まで、万まで。
「おまえはいつまでも鈍で阿呆で、僕はどこまでもバカ旦那でさ」
 桟から降りて、膳の上の徳利を取ると、升吉の杯に注ぎ足してやる。注ぎすぎて少しばかり溢れた酒を、「おーっとっと……」と口を突きだして啜りながら、
「そんじゃあ、万年後の月の夜もオレらはこうして酒を飲んでるかもしれませんねぇ」
 と云ってみた。喉を滑り落ちる酒の甘さに満更でもない気になる。そういう夜が本当にあるかも知れぬと思えてくる。きっと、その夜の月は青いだろう。

 青い夜の夢を見た。


 頬をピタピタとはたかれている。よせやい、と升吉は思う。折角夢を見ているのに、升吉の長屋に住むネズ公は、夜ごと穴から出てきては彼の安眠を妨害する。
「……おい、升吉。起きなって」
 うぅむ、と呻って目が覚めた。
「ありゃ、若旦那でしたか。……ネズミかと思ったぁ」
「起き抜けから失礼な奴だな。そんなにネズミに困っているなら、今度ツマミを貸してやる。だから、ちゃんと目を覚ましな。……お待ちかねが来たんだからサ」
「へぇ、お待ちかね。ナニがです?」
 まァだ寝とぼけていやがる、ともう一発頬を叩かれる。
 階下から木戸を叩く音がした。好二郎が目配せをよこす。耳を澄まして聞いてみた。

「ご免なさいまし、ご免なさいまし……」
 聞こえる、聞こえる。か細い女の声である。草木も眠る丑三つ時。お絹の幽霊のお出ましだ。
 好二郎の後ろに付いて段を降りた。店に出て行くと、だんだんに女の声が明瞭になる。
「ご免なさいまし、ここを開けて下さいまし」
 焦れているのだろうか、木戸を爪で掻くようなカリカリという音が声に混じる。
 好二郎が躊躇いもなく閂に手を伸ばすのに、思わず「待った!」と声を出した。表に聞こえぬ小さな声で問うてみる。
「ちょっと若旦那、大丈夫でしょうね。よもや取り殺されたりしないんでしょうねぇ」
「ばぁか」
 升吉の臆病を好二郎が笑った。
「男は一人で沢山の女を相手にしたがる性分だが、女ってのは好いた男は一人だけ。そういうさがが本道だろう。彼女の相手はもう定まっているんじゃないか」
 これ以上、余禄なんざ要るもんかい。
 そう云って、さっさと戸口を開けてしまう。外から内へと澱んだ空気が流れ込んで来る気配がした。女が妙にくっきりと夜の中に立っている。
 せんに聞いた話の通り、柘榴の目蓋に黄身色の目玉。それを覆うように流れる黒いほつれ毛。青白い皮膚もいっそ見事な、まことしやかな幽霊である。
「うひゃあー、出たぁ」と思わず知らず声が出た。好二郎が背後の升吉をチロと睨む。「失礼だろう」と低く叱られ、「アワワ……」と愚かな口を両手で塞いだ。

 それに。お絹がうっすらと微笑んだような気がした。血の気のない唇が問いかけてくる。
「もうお一方おいでとは存じませんで。このような身なりでご免なさいましね。あたし、ぞっと怖いでしょうか?」
 身繕いをするように後れ毛をそっと撫で上げる。升吉は大急ぎで首を振った。女が好二郎を見る。心持ち仰向けられた顎の下、細い首には縊られた痕。
「多賀屋さん、お酒を売って下さいな」
「はい、少々お待ち下さい」
 好二郎が棚へ行って戻ってきた。その手には前もって用意しておいたらしい小振りの徳利がある。
「今夜の酒は一合程で良いのでしょう? 上等を入れておきました。ああ、これのお代は結構ですよ。お得意様へ餞別と……」
 そして、ご祝儀。
 そう云って、徳利を手渡す。お絹の口角が今度こそ大きく笑みの形に持ち上がった。


「ご亭主は、今どちらです?」
「あすこに」
 好二郎に訊かれて、女が指し示す通りの先の街灯の下。ぽぅっと明るいその一角に、屈み込んで猫と戯れる男がいる。あの細身のしっぽの長いシルエットは夜遊びから帰ったツマミだろう。男の差し出す指先の匂いをしきりと嗅いでいるようだ。与之助はこちらに気づいた様子で、着物の裾を払うとゆっくりと立ち上がった。そうして、好二郎達に向かって一つ丁寧なお辞儀を寄越した。こちらも無言のまま頭を下げる。
 今はああして温厚そうに立ち居振る舞うあの男が、このお絹をあやめたのか。こうして立って見えているのに、二人は本当に死人なのか? 大体が、どうしてこの二人は今なお共にいるのだろう?
 升吉にはなんとも解せない。南無三のこの夜限りだ。好二郎の後ろから身を乗り出して訊いてみた。

「なぁ、お絹さん。俺にはとんと会得がいかねぇ。酒を買いに行けと云われるのかい? 与之助があんたを殴るのかい?」
 お絹は与之助に向かって、手なんぞ振っている。「すぐに行きますから、もうちょっと待って下さい」との合図らしい。
「いいえぇ。もうあの人は殴りません。第一、殴られたってこれっぽっちも痛くなんざないんですよ。だって妾、もう死んじまいましたもの」
 徳利を大事そうに抱え直す。中の酒がちゃぽんと湿った音を立てる。
「じゃあ、なんで自分に手を掛けた男なんぞに毎晩酒を貢ぐんだい?」
 お絹は与之助の方を見た。男はただ立っている。所在なさげなその様子は、升吉に迷い犬を思わせた。街灯の明かりに、大きな蛾が寄っている。ひらひらと舞うその羽が与之助の顔を掠めたが、身じろぎ一つしはしない。

「妾を殺して、化けられて。……そうしたらね、あの人は、怖い怖いと妾の膝に取り縋って、子どもみたいに泣くんです」
 殺してしまって悪かった。警官が俺を組み敷いたんだ、怖かった。お前の死に顔が無惨で、俺はおうおう泣いたよぉ。警官に縛られたこの手の痕を見ておくれよ。ほら、こんなに擦れて腫れて酷いだろう。みんなが俺を人殺しだと責めるんだ。非道いよぉ。俺はこの鬱陶しいお絹から逃げ出したかっただけじゃあないかい。お絹は非道い女だよ。俺を飼い殺しにして悦に入っていやがる。子どもに飴玉与えるように、俺を酒漬けにして腑抜け男にしやがった。全く我慢ならねぇよ。ああ、酒だ、酒が飲みたい。もう我慢がならねぇよぉ。喉が渇いて死にそうだ。お絹、酒を買ってこい。俺に一緒にいて欲しけりゃぁ、今すぐ酒を買ってこい!
「そう云って、ずっと泣いてばかりいるから、お酒を買っていってあげたんです」
「あんたはあいつを恨んでるんじゃないのか?」
 升吉の問いに、お絹が柘榴の目玉を丸くした。
「そんなまさか。恨みなんか御座いません」
「でも、あんたを殺した男でしょうに」
「すまねぇ、すまねぇって慚愧に体を震わせるのよ。子どもみたいに泣きじゃくるの」
 そりゃあ、許してあげますよ。許してあげなきゃ嘘でしょう。
「だって……」と女が云う。口元がほころぶ。歌うような口ぶりで、女は目元を潤ませる。
「だってねぇ、あの人は妾がいないとダメなのよ。妾がずっとついていて、面倒をみてあげなくちゃあ」

 お絹は、酒の礼を云うと、外灯の方へ駆けていった。徳利の瓶を与之助の前で振ってみせる。酒に伸びる男の手を女はやんわりと遮って、その手を取ると、腫れあがった無惨な半顔でうっとりと微笑む。泣きそうに顔を歪める男の傍にそっと寄り添って歩き出した。


「……ありゃァね、お絹は与之助を取り殺したんだよ。酒毒だけじゃなく幽毒にも当てたんだろう。与之助にもそれ位はちゃんと分かっているんだろうが……」
 好二郎がポリポリと首の辺りを掻いた。そうして、その手で首筋を二度ばかり叩く。首を回す。
「それでも逃げないってことはサ、きっと観念したんだろうねぇ」
「観念って……お絹を殺した自分の罪を悔い改めたってことですかい?」
「そうじゃない。あいつはね、女無しではいられない男なのさ。一人で立って歩けないんだ。そんな自分の弱さにね、今更ながら観念したんだ。だから、お絹についていく」
「……」
「でも、あの後ろ姿を見てみなよ。良い感じに見えるじゃないか。仲睦まじい様子だぜ」
 アレはアレでお似合いだ。
 似合い? あれは似合いなのか? その言葉に疑問を覚える。
 升吉は、二人を追って行ってとっ捕まえて、「人生やり直せ!」と叫んでやりたい衝動に駆られた。だが、彼らの歩むべき人生は既にない。お絹も与之助ももう死んでしまった者達だ。
 死んでも何も変わらない。好二郎の云った通り、お絹も与之助も変わらない。彼らは変われなかったのだ。一切。ただ何一つ。
 二つの影がおぼろに並んで、冥途へ遠ざかって行く。やがて滲んで闇の中へと消えていった。


「さァて」と好二郎が大あくびをした。
「物見も済んだことだしね、とっとと寝るとするかな」
 戸口を閉めしっかりと閂を下ろして、さっさと階段を登っていく好二郎の後を追いつつ升吉が尋ねる。
「しかしですねぇ、若旦那。オレにはもう一つ解せないんだ」
「ん?」
「なんでお絹が今日もう一度、酒を買いに来ることが若旦那には分かったんです?」
 部屋に戻ると、桟の上にツマミが丸まって眠っていた。屋根づたいに窓から帰ってきたらしい。白黒ブチの毛だまりを好二郎が抱き上げる。
「彼女はあの世でも与之助とずっと一緒にいたいのさ。後世ごせをも誓おうというわけだ。……となると。ほら、祝言には絶対に欠かせないものがあるだろう」
「???」
 升吉には分からない。首を捻るばかりだ。鈍はこれだから困るねぇ。好二郎が苦笑いする。
「三三九度の盃さ」
「あ!」
 成程。酒、か。

 老舗多賀屋にまつわった、酒屋の幽霊の顛末である。

 END--------------------------  酒屋の幽霊




■■後書き

この話は、民話「飴屋の幽霊産女うぶめの幽霊)」をモチーフにしています。でも、書き始めてからとある場所で訊いてみたら、この民話の認知度ってどうも低いみたいでして。
あっちゃー、そんなんモチーフに使ってもしゃあないなぁ。じゃあ、もうすっかり話を変えてしまえ〜! ってな感じで、当初の名残はもじってつけたタイトルだけになってしまいました。あっはっは。

新シリーズです。どうぞよろしくお願いします。感想を頂ければ幸いです。

宇苅つい拝



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↑ ランキング云々とは無縁な個人仕様。小説書きの活力源です。お名前なども入れて下さると喜ぶにょ


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