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 TOP小説幸福画廊幸福別館>07

幸せの在り処



作・深那 優


■■プロローグ

「私としたことが、迂闊でした……」
 開かれた窓から入り込む秋の風を受けながら、朱里は外を見やって呟いた。秋と言ってもまだ初秋。風はまだどこか生暖かく、朱里の長髪に湿った空気が注がれる。
 今、その朱里の呟きを聞き取れる者はだれも居なかった。この屋敷――【幸福画廊】には、主である白野とメイドとして雇われている小鳥、そして執事である朱里の三人が住んでいる。だが、白野と小鳥は外出中なのか、屋敷に残っているのは朱里だけだった。
 朱里の呟き――その意味を知るためには、二日前にこの屋敷で展開された会話を説明しなければならない。
「…………白野様」
 朱里の呟き声は、発生源である彼の性に似合わず儚く室内に霧散した。



【幸福画廊】
その画廊の絵を見ると、人は幸せになるのだと言う。
これまでに味わったことのないような幸福感を得るのだと言う。
その絵を手に入れる為に世の金持達はこぞって大金を積むのだと言う。
全財産を叩いても、惜しくないほどの幸福がその絵の中にはあるのだと言う。



 ――――だが、少なくとも今、朱里の幸せはココに存在していない。

■■1

「あら? こんな時間に……お客様かなぁ?」
 小鳥が屋敷の呼び鈴が鳴るのを聞き取ったのは、深夜と呼んでも差し支えない時間でのことだった。今日依頼の品を完成させたばかりである白野様は、当然もうご就寝。まさかこんな時間に予約を入れたりはしていないだろうとは思いながらも、小鳥は電話でセント伯爵と談義を交わしている朱里を一瞥すると、玄関へと歩みを進めた。
 玄関の扉の先には、小鳥には面識が無い女性が一人立っていた。女性にしては長身で顔立ちも良く――平たく言えばスタイルが良い。
 モデルのようなスタイルの女性は、玄関から出てきた小鳥を見ると、徐々にその瞳を輝かせ始めた。まるで、大好物な食べ物を目の前にしたときのような、満面の笑みと共に。
「あの、どういったご用件でしょう……か?」
 ――そのあまりの目の輝かせ様に、小鳥は思わず一歩引きながら疑問形の言葉を返す。身体が、本能的に危険を察知していた。しかし、いくら危険を察知していようが、目の前に居る女性はお客様かもしれない。本能にまかせて逃げ出すわけにはいかないと、理性が小鳥をその場に留まらせる――と、

「――か、可愛い〜!!」
「えっ、な、何? ――きゃあ!!」

 女性は思いっきり小鳥に抱きついていた。そのあまりの勢いに、小鳥は一気に玄関の中まで押し戻される。見掛けによらず力があるようで、小鳥は女性の抱擁から抜け出すことが出来ない。
「良いなぁ、この服! フリフリが可愛いし、髪も綺麗! 長めのボブかぁ、私には似合わないもんなぁ……良いなぁ、良いなぁ!」
 言いながらも、女性は嘗め回すかのように小鳥のいたるところに手を伸ばす。明るく陽気な色の髪を撫ぜたり、着ている服を隅々までチェックしたり、その服の中に納まっている小鳥のボディラインに手を滑らせたり――。
「な、何するんですか!? やめて下さい! や、やめなさいっ! やめて……やめ……あっ、だめ、そこは……」
 必死に抵抗を見せる小鳥だったが、女性の手が動くたびに身体が敏感に反応し、やがて口から喘ぐような声が漏れ出す。力無く、玄関の壁にもたれかかる。
 ――しかし、そんな小鳥の窮地を救う人物が現れた。それは小鳥が陰険執事と嫌う、朱里その人であった。セント伯爵との談義を終えたのか、様子を見に玄関にやってきたのだ。
「ハァ、ハァ……た、助けてぇ……」
 ここぞとばかりに、小鳥は気力を振り絞ってその言葉を朱里に向ける。
 朱里は目の前で繰り広げられている寸劇を見ると、珍しく難しい顔をして言い放った。

「小鳥さん、まさかあなたにそちらの気がおありだとは……全く気づきませんでした。まだまだ私も未熟ですね。……あなたの趣味趣向に文句を言うつもりはありませんが、館内での戯れは勘弁していただけませんか」

「違うって〜!!」
 小鳥の叫びが空しく響く。その叫びに対して「お静かに」とだけ返した朱里は、そそくさと玄関から去ろうとする――が、
「……おや? もしかして貴女は、舞羽さんではありませんか?」
 朱里の不意な言葉に、ようやく小鳥を攻め続けていた女性の手が止まる。そして、壁にもたれたまま崩れ落ちる小鳥から視線を離し、ゆっくりと朱里のもとへ。
 女性は朱里の肩に腕を回すと、耳元でそっと囁いた。


「――会いたかったわよ、陰険執事」
「――えぇ、私もお会いしたかったですよ、悪巧モデルさん」


 開け放たれたままの玄関から入り込んだ風が、二人の長髪を舞わす。小鳥には、その二人が夜叉と阿修羅のように見えた。そう思わせる程に、二人の周りには何かオーラのようなものが渦巻いていたのだ。――どす黒い、欲望に満ちたオーラが。


「さっきはごめんなさい。私、可愛い人を見ると居ても立ってもいられなくなっちゃう性質なの。……もう、聞いてないわよ〜、こんな可愛いメイドさん雇っただなんて」
 女性は小鳥への謝罪の言葉もそこそこに、朱里に向かってそう言い放つ。
 朱里は自らが淹れた紅茶を口にしながら、いつもの澄まし顔で言葉を返す。
「いちいち貴女に当家の現状報告をする義理はありませんよ。だいたい、何の連絡も無しにいきなり訪問してくる貴女も貴女じゃないですか」
 いったいこの女性と朱里はどういう関係なんだろうと、小鳥は思う。話を聞いている限り、面識があるのは確かみたいだけど。……少なくとも、恋人同士では無いだろう。あの玄関で感じたオーラは、とても恋人同士が放つものとは思えない。
 自然と疑問が表情に映っていたのか、朱里が小鳥に女性のことを説明しだす。
「あぁ、説明が遅れましたが、彼女は橘 舞羽さんといって、以前――あなたが当家に来られる前に、幸福画廊に絵を依頼していただいたことがあるんです。彼女はJ国出身のファッションモデルでして。……ほら、最近某有名ブランドのファッションショーに特別ゲストとしてJ国出身の新人モデルが参加したという報道が流れたの、ご存知ありませんか?」
 言われて小鳥は想起する。……確かに、数日前にそんな報道が流れたような気がする。『アジアンティーンモデルの奇跡』とか、大々的に新聞に書かれていたっけ。――って、ティーンモデル!?
「あ、あなた年下なの!?」
 思わず叫んでしまう小鳥。まぁ、それも仕方の無いことかもしれない。二人の体躯を比べて、小鳥の方が年上だと瞬時に判別出来る人はそう居ないだろう。
「あれ? えっと…小鳥さんでしたっけ。……って、年上だったんですね。あんまり可愛いものだから、年下なのかと思っちゃいました」
 特に驚いた様子も見せずに返す舞羽。そして、それを聞いて思わず顔を紅潮させる小鳥。
 朱里は、その二人の様子を見ると、小さくため息をついた。
「小鳥さん、あまり舞羽さんの言葉を真に受けないように。あと、あまり大きな声を出さないでください。白野様を起こしてしまいますから。それに舞羽さん――」
 ――と、更に話を続けようとする朱里を遮ったのは、誰かが階段を下りてくる足音だった。朱里と小鳥と舞羽、この三人以外に今この屋敷に居る人物は、もう一人しか居ない。
「いけません、白野様!!」
 慌てて立ち上がり、階段の方へ向かおうとする朱里。――しかし、時すでに遅し。

「………ん? 朱里…こんな時間にお客さん?」
 眠たそうに目を擦る白野が、ドアを開けて立っていた。栗色の巻き毛が、少し重そうに揺れる。
 室内に白野が入り込んだという事実に、朱里は周りを気にすることも無く思いっきり頭を抱えた。その様子に、小鳥は驚きを隠せない。いったい、何が朱里をそうさせるのだろうか。――その答えは、わざわざ思案する必要もなくすぐに発覚した。

「キャー! 白野様だ〜♪」

 舞羽が叫びながら抱きついていた。……間違いない。朱里が恐れていたのは、これだ。
「あれ? 舞羽ちゃん?」
 そんな朱里の想いを知ってか知らずか、白野は全く動じずにそう呟く。
「こんばんは、白野様。……あ〜ん、やっぱり白野様かわゆい〜♪」
 舞羽の抱擁は止まらない。何か、キスでもしかねない勢いだ。何とか気を取り直した朱里が止めにかかるが、
「――あなたに独り占めなんてさせないわよ、ショタコン執事」
 舞羽は鋭い表情で朱里を牽制。一瞬、朱里の動きが止まる。……しかし、朱里も『朱里』である。すぐに持ち直し、舞羽に言い返す。
「どう思われても構いませんが、白野様に危害を加えることは絶対に許しません」
「あら、別に嫌がってなんていないですよね〜、白野様?」

「…………うん、別に」

 ――朱里が負けた。そのことに、小鳥は驚いていた。朱里をねじ伏せることの出来る人物など、そう居るものではない。居るとしたら白野くらいだということを身をもって体験してきた小鳥にとって、今目の前で起きた現象は驚愕の域に達するほどの出来事だった。舞羽のことをカッコイイとすら思っていた。
 舞羽に見事にねじ伏せられた朱里は、しばらく呆然と立ち尽くしていたが、いつまで経っても白野から腕を解こうとしない舞羽に、珍しく感情を荒げて叫ぶ。
「いい加減にしてください、舞羽さん! いくら白野様が嫌がられていないとはいえ、度が過ぎます! だいたい、貴女も何かご用件があって当家を訪れたのではないのですか?」
 朱里の言葉を聞いた舞羽は、ついにその腕を白野から離した。そして微笑を白野に送ると、ゆっくりと席に腰掛ける。舞羽の抱擁攻めにあっていた白野も、続いて空いている席に座る。――舞羽が、ゆっくりと口を開いた。


「絵を……描いてほしいのよ」

■■2

「貴女に依頼された絵は、もう描いたはずなんだけど」
 舞羽にそう返したのは白野。相変わらずのおっとりした口調で語られた言葉に、舞羽は微笑みを浮かべる。
「今回描いてほしいのは、私じゃなくて弟なの」
「一度ご依頼されたことのある貴女ならご存知だと思いますが、【幸福画廊】の絵は描かれるご当人に合わせて描かれます。貴女の弟様にお会いしなければ、それを描くことは出来ませんよ。――どうぞ、白野様。熱いのでお気をつけください」
 朱里がホットミルクを白野に渡しながら、そう舞羽に告げる。
 舞羽は、その言葉を当然のように受け止めていた。表情を崩すことなく、言葉を続ける。
「もちろん、わかってるわよ。……だから、弟に会いに来てほしいの」
「会いに行くとは、J国まで白野様を連れて行くということですか?」
「もちろん。それに、出来れば弟には気づかれたくないの」
「どうして?」
 白野の問いに、舞羽は少し表情を緩ませる。
「――だって、誕生日プレゼントにしたいんですから。どうせなら驚かせたいじゃないですか」
 ふーん、と、白野は舞羽を見つめる。その蒼い瞳に、舞羽の姿が溶け映る。
「いけませんよ、白野様」
 ふと、朱里がそう言い放った。いきなりだったからか小鳥は驚いているようだが、舞羽と白野はまるで予想していたかのようにビクともしない。
「白野様をそんな遠方の地へ向かわせることなど、絶対に出来ません。それに舞羽さん、貴女がかかわっているとなると、ろくなことが起こらないような気がいたします」
「……随分ヒドいこと言うわね」
「当然です。前回のご依頼の際も、貴女のおかげで当家の品位が大きく損なわれるところだったのですよ。だいたい――」
「――いいよ、描くよ」
「白野様!?」
 突然の白野の言動に、朱里は大きく目を見開く。だが、白野の表情は変わらない。
「僕、描くよ。J国にも行く。……いいよね、朱里?」
「し、しかし……」
「……いいよね」
 白野と朱里の視線が交錯する。白野の蒼い瞳に、迷いは無い。こうなってしまっては、もう朱里の主張が通ることは無い。
「やった! 決定ね♪」
 朱里は大きくため息をつくと、渋々口を動かす。
「仕方ありませんね。……ただし、絶対に私もご同行いたしますからね!」
「わかってるわよ。ちゃんと貴方にも来てもらうわ。……本意ではないけど、仕方ないものね。あと、小鳥さんもね」
「え、私もですか?」
「当然ですよ。こんなに可愛い女性を一人置いていくだなんてことしたら、近所の男どもが黙ってないハズ! きっと小鳥さんが寝静まった頃に下衆な輩が不法侵入して、襲い掛かってくるわ。不意を突かれて全く抵抗出来ない小鳥さん、それを良いことに次々と身包みを剥いでいく輩! そして、小鳥さんをキズモノにしてしまうんだわっ! あぁ、考えただけでも恐ろしい!!」
 熱を帯びていく舞羽の話に、一同はただ呆けることしか出来ずにいた。数秒の沈黙の後、白野が小さく笑い声を漏らす。
「ふふ、大丈夫だよ舞羽ちゃん。もちろん、小鳥ちゃんも一緒に来てもらうから。……いいよね、小鳥ちゃん?」
「え、えぇ、もちろん。っていうか、一度J国に行ってみたいと思ってましたし、むしろ大歓迎というか」
「じゃあ決まり! 出発は一週間後ってことで、ヨロシク♪」
 舞羽はそう言うと、もう大分冷めてしまった紅茶を飲み干し、立ち上がる。そして、
「それじゃあ、また近いうちに連絡するからっ!」
 そう言い残して、そそくさと屋敷を出て行った。


 ――急に静まり返る室内。その中で、白野の口から漏れる小さな笑い声だけが、辺りを往来していた。

■■3

 そして、舞羽が屋敷を訪れてから二日目のこと――。

「白野様、私はこれからセント伯爵様の元へと出かけますので、何かありましたら小鳥さんの方によろしくお願い致します」
「あぁ、わかってる。いってらっしゃい、朱里」
 この日、朱里はチェスの相手という大役を担うために、セント伯爵邸へと赴くことになっていた。どうやら、セント伯爵は朱里によって黒星をつけられていることにどうも納得がいかないらしい。
 朱里が出かけると、白野は小鳥と共に五日後に迫ったJ国への旅の準備を始める。……とは言っても、すでに大半の用意は出来ていた。もともと、持って行くべきものはさほど存在していない。必要最低限の衣服類とパスポート、あとは絵を描くための道具一式くらいだ。
 案の定、すぐに準備は終了してしまい、特にやるべきことが無い時間が訪れる。
「……さて、これからどうしようか、小鳥ちゃん」
「う〜ん、そうですね。えっと……」
 小鳥が顎に手を添えながら思考していると――

「ん? お客さんですかね?」
「う〜ん、今日も予約は入ってないはずなんだけど」

 階下から聞こえてきた呼び鈴の音に、小鳥は「見てきますね」と白野に告げて玄関へと向かう。
 玄関の扉を開ける。――そこに居たのは、大き目のショルダーバッグを担いだ舞羽だった。覗くように小鳥の背後を窺いながら、少し緊張しているような面持ちで小さく小鳥に尋ねる。
「今、あの陰険執事って出かけてますよね?」
「あ、はい、出かけてますけど」
 小鳥の言葉を聞いた舞羽は、ホッと胸を撫で下ろした。だが、緊張の面持ちは崩さずに、小鳥に問う。
「小鳥さん、今すぐ白野様呼んでくれますか? あと、荷物も一緒に」
 舞羽はそう言いながら、二枚の航空券を小鳥に手渡す。――今日付け、J国行きのものだった。
「こ、これって……。J国に行くのは五日後なんじゃ……」
 舞羽の表情から緊張感を感じ取っているのか、小鳥は少し焦りながらそう聞き返す。
「ちょっと事情が変わっちゃったんです。ごめんなさい、急がないと間に合わなくなっちゃうから、早く白野様を――」
「もう、準備は万端だよ。――行こうか、小鳥ちゃん、舞羽ちゃん」
「し、白野様?」
 小鳥は驚いていた。何故、何も告げていないのに荷物を持って玄関に現れたのか。そう、疑問に思ったのだ。――だが、すぐに小鳥は納得する。
 そう、彼は白野様なのだ。<全てわかっている>のだろう。
 舞羽も舞羽で、一瞬驚きを見せたものの、すぐに表情を戻していた。
 ――舞羽さんって、本当に何者なんだろう。
 小鳥はその疑問を飲み込みながら、白野が持つ荷物を受け取った。


「こ、これはいったい……」
 セント伯爵とのチェスの手合わせを終えて、屋敷へと戻ってきた朱里。その朱里を迎えるものは、誰一人存在していなかった。
 直感的に、朱里は白野のアトリエへと向かう。すると、そこには小さな紙に書かれた白野の文字があった。


『ごめんね、朱里。朱里の分も楽しんでくるから。……舞羽ちゃんのこと怒らないでね』


「私としたことが、迂闊でした……」
 開かれた窓から入り込む十月の風を受けながら、朱里は外を見やって呟いた。

■■4

 J国までは、想像していたよりさほど時間を要さなかった。到着した空港で待っていた車の中で、小鳥は外の景色を眺めている。
 軽快に走る車に乗ってから、すでに一時間が経過していた。窓の外には広がる海。舞羽の父だという車を運転している男性――純羽の話によると、白野と小鳥が泊まる橘邸までは、もう五分もかからずに到着するらしい。
 白野と小鳥は、橘邸にホームステイをするという形で乗り込む手筈になっていた。これは純羽も承知のことらしく「少しの間ですがよろしくおねがいしますね」と、愛想の良い笑みを二人に向けていた。優しそうな人だと、小鳥は自然に笑みを浮かべる。
「さぁ、着きましたよ、皆さん」
 純羽が車を停め、下車を促す。そこは海沿いの通りに面した、小さな花屋だった。
 海沿いで花屋だなんて、花が悪くなっちゃったりしないのかしら。小鳥はそう思いながらも、ビニールハウスの中で咲き誇っている花々を見ると、しっかりと手入れされているんだなぁと納得する。
 招き入れられた橘邸に、例の舞羽の弟は存在していなかった。学生であるという舞羽の弟――翔羽は、今日は休日なはずである。友人と遊びにでも行っているのだろうか。
 小鳥がそのことを舞羽に聞くと、舞羽は壁に掛けられているカレンダーを指差して言った。
「今日、翔羽が通ってる高校で『さざなみ祭』っていう文化祭――まぁ学園祭をやってるんです。それで翔羽も自分のクラスの出し物に精を出してるってわけで」
「……ねぇ、学園祭って何?」
 ふと、白野が誰にというわけでもなく疑問を投げる。その疑問に、舞羽と純羽は目を丸くした。小鳥は、そういった意味での白野の無知さに慣れているので、動じない。
「学園祭を知らないんですか?」
 純羽が、微笑を湛えながら白野に問う。白野は、その問いに対して当然のように首を縦に振る。そんな白野に、小鳥が説明をする。
「えっと、学園祭っていうのは、その名の通り、学校でやるお祭りみたいなものです。学生が色んな出し物を出したりして、お客さんに楽しんでもらうんですよ。でも、ただ楽しむだけが目的じゃなくて、学生たちに『互いに協力すること』とか『人との接し方』だとかを実体験から感じ取ってもらう目的もあるんです」
「へぇ……前に行ったカーニバルみたいなもの?」
「う〜ん……まぁ、楽しめるって意味では近いですね」
 白野は小鳥の説明に少し思考した後、そっと呟く。

「ふぅん……僕、行って見たいな、学園祭」

 その白野の呟きに素早く反応したのは、舞羽だった。
「じゃあまだお昼前だし、適当に準備したら皆で行こうよ! うん、それがいいわ! はい、決定!!」
 舞羽お得意の強制連呼。いい加減慣れたのか、白野も小鳥も特に驚きを見せることは無く、即座に学園祭行きの準備が始まった。

 ホームステイするからには、それなりの部屋数があるものだと思っていた小鳥だったが、実際には橘家の面々が使用している部屋数しか部屋は存在していなかった。
 当然、白野と小鳥は誰かが使っている部屋で寝泊りすることになる。更に言えば、小鳥は女性である。必然的に、小鳥は舞羽の部屋を使うことになった。
 舞羽の部屋は、実に綺麗に片付いていた。ベッドに机、そして大き目のクローゼット。最近はあまりここで寝泊りすることが無いのだろうか、机の上にはほとんど何も置かれていない。
「荷物は適当に置いちゃっていいですから。あとベッドも好きに使ってください」
「えっ、でも貴女はどうするの?」
「あぁ、私は別のアテがあるから大丈夫♪」
 何が別のアテなのかはわからないが、折角使わせてもらえるならと、小鳥は素直に応じる。――と、
「ちょ、ちょっと!?」
 小鳥が叫んだ。それはもう、素っ頓狂な声で。……何故小鳥が叫んだかといえば、
「えっ? あぁ、私ここに戻ってきたら、必ず着替えることにしてるんですよ。着替えることに……ね」
 そう、小鳥の目の前に居た舞羽が、突然着ていた衣服を脱ぎだしたのである。それだけならまだしも、舞羽は目を輝かせている。――あの、【幸福画廊】で初めて会った時と同じ輝きだ。
 小鳥はやはり瞬時に危険を察知していた。……が、結局は察知しただけ。そこから行動に起こす前に、舞羽の次手は打たれていた。
「と、いうわけで小鳥さんも着替えましょ〜♪」
「ま、待って! わかった! わかったから勝手に脱がさないでよ〜!!」
 いくら小鳥が泣き叫ぼうとも、舞羽の手は止まらない。無残にも衣服は剥がされていき、いつの間にかクローゼットから取り出されていたらしい服が被せられる。
「……か、完璧よっ! 小鳥さん!!」
 舞羽はそう叫びながら、小鳥を無理やり室内にあるスタンドミラーの前へと連行する。その鏡に映る自分の姿を見た小鳥は、湧き出てくる恥ずかしさのあまり顔を真っ赤に染め上げた。
 小鳥に着せられたのは、いわゆる『メイド服』である。まぁ、実際に小鳥はメイドなのだから、この服を着ていることが不自然なわけではない。ただ、小鳥は何か違った意図をこの服に感じてしまう。……そう、思わせてしまうようなデザインなのである。
 丈の短いワンピースはスカート部にフリルが付いていて、襟とカフスだけが白い。そして、上に被さる白のエプロンにも、肩部と前掛部にフリルが。胸元には黒い大き目のリボンがあしらわれ、頭にはしっかりと白フリルつきのカチューシャが。
「こ、ここ、これを着てどうしろと?」
 半ば混乱状態の小鳥が、舞羽に何とか問う。しかし舞羽は小鳥の状態などお構いなしなのか、自らも別の服を着ながら当然のように返す。

「どうするって、これで学園祭に行くんですよ〜♪」

 ――しばしの沈黙。大きく息を吸い込む小鳥。そして、
「な――――」
 思いっきり何かを叫ぼうとした小鳥だったが、舞羽が素早く口元を押さえつけていた。小鳥の声は、無理やり口の中に押し戻される。
 目尻に涙を溜めながら苦しそうにしている小鳥の耳元で、舞羽がクスッと笑いながら囁く。その囁きで、小鳥の苦しみは一気に消えうせる。



「――大丈夫。きっと、白野様も気に入ってくれますよ♪」


 小鳥と舞羽がリビングルームに戻ると、すでに白野と純羽は準備を終えていたようで、二人で何やら談話をしていた。白野の顔に、微笑が浮かんでいる。
「おっ待たせ〜! こっちも準備万端だよ〜♪」
 舞羽の言葉に、白野と純羽が一斉に視線を移す。瞬間、小鳥の中で超ド級の焦りが嵐となって渦巻いた。
 ――ダメだ。さすがにこれは、笑われる。……恥ずかしい。……恥ずかしい? ……もう、良くわからない!
 小鳥は思いっきり顔をうつむかせていた。そんな状態でも、顔を赤らめていることが見て取れる。
「お、舞羽さんのチャイナドレス姿、久しぶりに見た気がしますね〜。似合ってますよ、とても」
 と、まずは純羽が舞羽の姿に賞賛を浴びせる。舞羽の肢体にフィットする青のチャイナドレス姿は、確かに賞賛するに値するものだろう。
「へへ、白野様と中国服繋がりだもんね〜♪」
 舞羽もまんざらではないらしく、素直に喜びを表現している。
 そりゃそうよ。だって彼女はモデルなんだもの。何だって似合うでしょうよ。でも、私は……。
 思考すれば思考するほど、うつむく角度が急になっていく小鳥。――でも、

「うん、とっても似合ってるよ、小鳥ちゃん」

 白野本人にしてみれば、なんてことの無い一言だったかもしれない。でも、小鳥にとっては奈落の底から救い出してくれる希望の言葉だった。うつむかせていた顔を、ゆっくりと上げる。
「あ……ありがとう…ございます」
「ねっ! すっごく似合ってるでしょ!! これを機に、この服を正式な作業服にしたらどうですか、白野様? ってか、絶対にこの服の方が可愛いですよ〜♪」
 白野の言葉を自分のことのように喜ぶ舞羽は、調子に乗ってそんなことを言ってみたりする。さすがにそれは御免こうむりたい小鳥は、必死に拒否しようとするが、

「……うん、それもいいかもね。小鳥ちゃん可愛いし」

「……………」
 相変わらずのおっとり白野様に、小鳥はなすすべも無く再び顔を赤らめるのだった。

■■5

 舞羽の弟――翔羽が通っている高校は『私立佐々原高校』というらしい。舞羽自身も、高校時代をそこで過ごしたそうだ。翔羽は二年で、クラスの出し物は喫茶店。もうすぐお昼という時間、グッドタイミングなようだ。
 純羽の車で佐々原高校に到着した四人は、校内に並ぶ出店に目を奪われながらも、最初の目的地と決めた翔羽のクラスへと向かう。
「ねぇ、ことりん」
 校舎内の廊下を歩きながら、ふと舞羽が小鳥に呼びかける。しかし、当の本人は自分が呼ばれているとは思っていないらしく、ただ前を向いて歩みを進めている。
「ねぇ、ことりんってば!」
「……えっ、私?」
 二度目の呼びかけでようやく気づいた小鳥は、自分が『ことりん』と呼ばれたことに、恥ずかしさを隠せない。
「こ、ことりんって……」
「ん? ダメですか? 折角可愛い格好になったんだから、可愛い呼び方にした方がもっと可愛らしくなるじゃないですか。……まぁ、小鳥って名前自体とっても可愛らしくて羨ましいですけど〜」
 舞羽は少し口を膨らませながら、冗談交じりにそう話す。まぁ、ほぼ本気で言っている言葉だろうが。
「ねっ、白野様っ♪」
「うん。可愛いね、ことりん」
 瞬時に返答する白野の言葉に、嘘偽りは感じられない。もちろん、照れなど全く無い。
 お決まりのように顔を赤らめながらうつむく小鳥に、舞羽がそっと囁く。
「ねぇ、ことりん。それはそうと、さっきから周りの男の視線を釘付けにしてること、気づいてます?」
「えっ?」
 言われて、小鳥は周囲を軽く見回す。廊下に居るのは何故か学生服を着た女子生徒が大半を占めていたが、それでも男子生徒や一般客の男性もちらほらと存在している。その男性たちの視線は、確かに小鳥の方に向けられて――。
「あ、あぁ、多分皆貴女のことを見てるんですよ。『アジアンティーンモデルの奇跡』を皆見たいんですよ」
 小鳥は納得しながらそう言った。しかし、舞羽は全く納得していないようだ。
「そんなこと無いですって。だって、私は実家に帰ってきたら必ずといっていい程ココに寄ってるから、皆見慣れてるハズですもん」
「いや、それでもやっぱり初めての人もたくさん居るだろうし」
「じゃあ――――」
 舞羽は一端言葉を切ると足を止め、ある教室のドアを開けて呟いた。


「――じゃあ、試してみます?」


 開けられたドアの先。そこには、数卓の机を並べた上にテーブルクロスを被せた、簡易の長テーブルが数台存在していた。並ぶように設置された椅子には何人かの客が座っていて、テーブルの上に並ぶ軽食とお茶を楽しんでいる。どうやら、ココが舞羽の弟――翔羽のクラスらしい。鼻腔をくすぐる美味しそうな香りで、ココの喫茶店としての出来に期待が持てる。――だが、
「こ、これは……何なの?」
 小鳥の口から、思わずそんな言葉が漏れる。……そう、確かに『喫茶店としての出来』には期待が持てる。だが、軽食やお茶を運ぶ女性たちの姿を見ると、その思いも少し揺らいでしまう。
「何って、『メイド喫茶』ですよ」
 さも当然のように舞羽が返す。今小鳥が着ているものとはタイプが違うが、確かに女子生徒たち――ウェイトレスが着ているのはメイド服である。
 入り口で固まったままの小鳥に追い討ちをかけるように、舞羽が大きな声で叫んだ。


「は〜い、ご来客の皆さ〜ん! 今からこの『ことりん』も接客しますから、どんどん声掛けてあげてくださいね〜♪」


 一瞬静まり返り、視線が一気に小鳥へと集中する。
「ちょ、ちょっと貴女何をっ!?」
 小鳥が涙目になりながら訴えるが、
「お願いことりん。弟の出し物を成功させるためにも、お願い! ……ねっ♪」
 舞羽がそう言って小鳥の背中をポンと押した瞬間、一斉にご来客の男性諸君の質問攻めが始まった。

「ねぇ、君もココの生徒なの!?」
「うちの生徒じゃないよね? もし良かったら、どこに通ってるのか教えてよ」
「このメイド服見たこと無いけど、もしかして特注?」

 質問攻めにあたふたしている小鳥をよそに、舞羽は実に楽しそう。そんな舞羽の様子を見ていた白野が、ふと漏らす。
「……舞羽ちゃん、あんまりうちの小鳥ちゃんで遊ばないでよ」
「あら、別に遊んでなんかいないですよ〜?」
 ――絶対に、舞羽は遊んでるんだろう。そうに違いない。
 そう確信しながらも追及しない白野。追求するだけ無駄だと思っているのか、それとも白野自身もこの状況を楽しんでいるのか、その答えは定かではない。

 いつまでも入り口で立ち往生しているわけにはいかないと、一向は揃って店内へと足を踏み入れる。丁度四席のテーブルが空いていて、ウェイトレスに進められるまま座る。
「小鳥ちゃん、大丈夫かな?」
 座ってすぐ、白野が珍しく心配そうに呟く。――それもそうである。すでに小鳥は喫茶店のウェイトレス『ことりん』として、何故か働くことになってしまっている。舞羽の顔が利くからか、元々ウェイトレスとして働いている女子生徒にも、あっという間に事情が伝わっていた。その中の一人が、メニューを持ってやってくる。
「いらっしゃいませ。先輩、お久しぶりです」
「あら、ヒナちゃん久しぶり〜! もぅ、相変わらず可愛いわね〜♪」
「そ、そんなこと無いですよ。それより先輩こそスゴいご活躍じゃないですか」
「ふふっ、そんなことないってば」
 どうやらこのウェイトレスは舞羽の知り合いらしい。舞羽のことを『先輩』と呼ぶところからして、舞羽が在学していた頃の後輩だろうか。童顔で、茶色の髪をポニーテールにしている。舞羽が言うとおり、確かに可愛らしい。
 しばらくポニーテールと舞羽の雑談が続いたが、ポニーテールは自分の仕事のことに気づいたらしく、
「あっ、私ったらメニュー渡すの……ご、ごめんなさい! あの、もし良かったら何かお好きなお茶をオマケしますので……」
「あ、別に気にしなくていいですよ、藤谷さん。でも……折角だから、いただきましょうかね」
 ポニーテールの慌てように、純羽が穏やかに対応する。何だかポニーテールの性格を良く知っているような応対だ。
 三人は、それぞれ好みのお茶を選ぶ。白野はアールグレイティー、舞羽はアップルティー、純羽はダージリンティーを、それぞれ頼んだ。
 ポニーテールはそれらを聞き取ると、少々お待ちくださいと言い残し、少し慌てながらカーテンで仕切られた奥のスペースへと消えていく。
「……相変わらず、ヒナちゃんってちょっとおっちょこちょいよね」
「そうですね。……結局肝心のメニュー、頼めませんでしたし」
 舞羽と純羽は、言いながら微笑む。――と、


「……ねぇ、舞羽ちゃんはあの子のこと、好きだけど嫌いでしょ」


 突然、白野がそう言ってのけていた。純羽はその言葉に目を丸くするが、舞羽はさほど動じていない。
「……ま、白野様に何を言っても言い訳にしかならないから、特に何も言わないことにしとくわ」
 舞羽はそう言って、少し悲しそうな笑顔を見せた。


 しばらくすると、ポニーテール――いい加減『ポニーテール』のままじゃ何か可愛そうなので、この後はちゃんとした名前『日奈子』と書くことにします。(著者より)――がオマケのお茶を運んできた。優しい香りが、辺りを包む。
「おまたせしました! あの…それと、ごめんなさい! 私、メニュー聞くの忘れちゃいましたよね?」
 深々と頭を下げている日奈子に対し、舞羽が微笑みながら返す。
「あ、うん、気にしないでいいよ〜。……それよりさ、今翔羽ココに呼べる?」
「えっと、ちょっと忙しそうだったけど……ちょっと待っててください!」
 日奈子はそう言って、再び奥のスペースへと消えていく。――そして数分後、日奈子と一緒に一人の男子生徒が姿を現した。
「何だよ姉貴、今スゲー忙しいんだから、大した用じゃないなら後にしてくれないか? だいたい、何の連絡も無しにいきなり学校に来たりして。それに、あの小鳥さんって人。また姉貴が無理やり仕事やらせてるんじゃないのか?」
 男子生徒は舞羽に向けて、苛立ちのこもった言葉を放つ。どうやら、彼が例の翔羽君のようだ。
「あら、とっても大事な用よ。それに、ことりんだって、無理やり仕事やらせてるわけじゃないわよ。……どう? ことりんが入ってから、売り上げうなぎ上りでしょ♪」
「そりゃあまぁ……あの人メチャクチャ人気出ちゃってるみたいで、料理作ってるこっちの身がもたないくらいだよ。……とにかくそういうわけで急がしいんだけど、大事な用って何だよ?」
「あのね、今日から数日間、この子――『白野君』とことりんがうちにホームステイすることになったから」
 名前を呼ばれて、白野が「ヨロシク」と手を上げる。翔羽は……固まっていた。
「あれ? ど〜したの、翔羽?」
「…………はぁっ!?」
 思いっきり、翔羽が叫ぶ。だが、周囲の視線が集まるのに気づいたのか、何でもないですと苦笑いを振りまきながら、再び、今度は小声で舞羽に問いただす。
「どうして姉貴は、いつもそう突然なんだよ? 少しは人に相談したりしないのか!?」
「あら、したわよちゃんと。ね〜、父さん?」
「はい。ちゃんと舞羽さんから連絡はしてもらいましたよ。……いいじゃないですか。ホームステイ先に選ばれるなんて、そうそう体験出来ることじゃないですよ」
「親父も何でそう能天気でいられるんだよ……。あぁ、もう苛立つのもバカバカしくなってくる……」
 翔羽はそう言いながら、頭を垂れる。そんな翔羽に、白野が瞳を潤ませながら、呟いた。
「……やっぱり…僕が居ちゃいけないんだよね。……そうなんだよね。……グスン」
 そんな白野の小芝居にもろに引っかかったのか、日奈子がもらい泣きしそうな表情を見せる。
「ね、ねぇ翔羽君。折角ホームステイしに来たのに、可愛そうだよ。私が言えることじゃないかもしれないけど、泊めてあげたっていいんじゃないかな?」

「――お姉さんは優しいね」

 背景にお花畑が映し出されそうな笑顔。――日奈子は撃沈した。
「うん、やっぱり可愛そうだよ翔羽君!」
 思い切り顔を突き出して詰め寄る日奈子に、翔羽は苦渋の表情を見せる。そして、
「あぁもう! ……わかったよ。まぁ少しの間なんだろうけど、よろしく。……あ、どうせ姉貴の魂胆ってことは、君は俺の部屋に泊まることになってるんだろ? 少し汚いかもしれないけど、パソコン以外は好きに使ってくれてかまわないから」
 翔羽はそう言いながら、結局穏やかな笑みを浮かべていた。それは、彼が白野と小鳥を受け入れた、一つの確かな証拠だろう。
「それじゃあ、マジで忙しいから俺はもう戻るぞ! 悪い日奈子、ちょっと手伝ってくれるかな?」
「あ、うんわかった」
 翔羽と日奈子は、微笑みながら奥のスペースへと向かっていく。何だか見ていて微笑ましいなと、白野は薄く笑――

「あ、そうそう翔羽とヒナちゃん! 一応言っとくけど、白野君はあんたたちより年上だからね〜」

 ――うハズが、思いっきり転げ落ちる日奈子に、その笑いは大きなものとなっていた。

■■6

 考えてみれば、物凄いことなのだ。この小さな教室の中に、白野という超絶可愛い白馬の王子様と、小鳥……いや、『ことりん』という超絶可愛いホンモノのメイドが揃って居るという事実は。更に言えば元々居るメイドウェイトレスたちだって、皆それなりに可愛らしいし、今や世界のスーパーモデルへの道をひた進む舞羽の姿まである。――そんな状態の『メイド喫茶』に、人が集まらないわけがなかった。
 最初は喫茶店として機能していたものの、次第にその趣旨が変わっていき、気が付けばココはメイド喫茶ではなく『撮影会会場』と化してしまっていた。押し寄せる人の波、もはやテーブルではなく『お立ち台』と化している連結された机、そして、それを楽しんでいる様子の舞羽と、明らかに困っている様子の白野とことりん。
 ローアングルからの激写がことりんを襲う! ――が、ただただ黙っているだけの小鳥ではない。
「……あんたたち、いい加減にしなさいよ〜!!」
 叫ぶと同時に、思いっきりローアングル男をカメラごと踏み潰していた。だが、残念ながらローアングル男にとって、それは苦痛よりも喜びへと繋がることだったらしい。確かな痛みがそこにあるだろうに、早くも腫れだした顔には笑みが浮かんでいる。……見ていて気持ちの良いものではない。
 白野はというと、周囲を取り巻く女子学生たちに、目をぱちくりさせながらその状況を何とか理解しようとしている様子。ただ、そんな状態でも彼特有のおっとり感は健在らしく、困惑の表情などは全く見せていない。そして、しばらくして慣れてきたのか微笑を見せるようになった白野に、周囲の女子学生たちは揃って黄色い声を上げだした。

「――はいはい、そこの女子諸君! ちゃんと入場料は払ってくれたまえよ。こっちも商売なんだ。タダ見はいけないよ」

 ――と、黄色い声に呼応するような声が。ちょうど教室の入り口あたりからだ。その発声源は、銀色の長髪をなびかせる一人の男子学生。中々の美男子である。……だが、言葉の内容と口調が、そのカッコよさを台無しにしているのは、誰の目にも明らかだろう。
「……おぃ誠人! いつからうちの出し物がこんなんになったんだよ!? ってか、だいたいお前クラス違うじゃねぇか!」
 そんな男子生徒――誠人に向かってそう言い放ったのは、少し前まで喫茶店で出す軽食を作っていた翔羽だった。今は誠人の隣で、フライパン片手に表情をキツくしている。今にもそのフライパンで殴りかかりそうな勢いだ。
 だが、そんな翔羽の勢いを目の前にしても、誠人は平然としていた。それどころか、逆に翔羽へ応戦し始める。
「いいか橘、よ〜くこの状況を見てみろ。どう見ても皆楽しんでいるだろうが。クラスの出し物を楽しんでくれている――願ってもないことだとは思わんかね?」
「だからって出し物の趣旨を変えることはないだろっ! しかも部外者に迷惑かけてるしっ!!」
「それは知らん。……あの王子様チックな少年とベリィキュートなメイドを連れてきたのは、お前ではないのか?」
「俺じゃなくて姉貴だっての! ……ハァ。もういい、疲れるだけだ。どうでもいいから、勝手に商売に転換するのは止めてくれ。あと、頼むから元の喫茶店に戻してくれ」
 翔羽はそう言うと、うんざりとした表情を満面に見せながら、人ごみを掻き分けて教室奥のスペースへと向かっていく。彼は中々苦悩の耐えないタイプの人間らしい。


 時は経って二時間後、さざなみ祭至上稀に見ぬ大混雑だった『撮影会会場』は、ようやく元のメイド喫茶へとその姿を戻していた。しかし、その影響は未だ残っているようで、大勢のカメラ小僧たちに殴る蹴るの暴行を浴びせまくっていた『ことりん』こと小鳥は、肩で息をしながら客席に倒れこむように座り込んでいる。とてもメイドウェイトレスとしての仕事が出来るような状態ではなさそうだ。
「……いったい何だったのよ、あの集団は。っていうか、何で私があんな目に会わなきゃいけないのよ」
 小鳥のぼやきが、落ち着きを取り戻しつつある教室内に放たれる。
「それは小鳥ちゃんが可愛いからじゃないの?」
 と、相変わらずのおっとり口調で返す白野。白野自身だって散々写真攻めにあっていたというのに、この余裕はいったいどこから出てくるのだろうか。……まぁ、本人も意識しているわけではないのだろうから、答えが導き出されることはないのだろうが。
 そんな白野の言葉に、小鳥は思いっきり頭を垂れる。
「……たとえそんな原因だったとしても、あんなのはもう嫌ですよ〜」
「ふふ、もてる女の子は辛いね」
「……白野様がそんなこと言わないでください。何か信憑性ないですよ」
 小鳥は白野の顔を見やりながら、ため息と共にそう漏らす。……確かに、美少年白野氏が言っても、全く言葉に信憑性を持てない。それどころか、小鳥は白野と面識があるから良いが、他人が言われたりしたら嫌味として取られてもおかしくない。また、本人に自覚が全く無いようだから尚更性質が悪い。
「ねぇ、とりあえず落ち着いたみたいだから、他のクラスの出し物も見に行ってみません?」
 そんな小鳥の気持ちや体調など全く気にしていない様子の舞羽が、皆に向かって提案する。舞羽自身は、周囲を取り囲まれるという状況に慣れているのか、疲れた様子など全く見せていない。
 白野は舞羽の言葉に「他にはどんな出し物があるの?」と尋ねる。割と乗り気なようだ。
 白野が乗り気である以上、小鳥に断るという選択肢を選ぶことはできない。小鳥は、白野が主である【幸福画廊】のメイド――なのだから。
 結局、誰も反論を上げる者はおらず、一向は別の出し物を見て回るために教室を出るのだった。


「なんだかんだで、結構周りましたねぇ」
 佐々原高校正面入口前。見上げれば夕空、空気は冷涼。純羽の声は、茜色に向かって飛んでいく。
「ホントに。さすがに私もちょっと疲れたかな」
 そうは言いながらも、それほど疲れているようには見えない舞羽。
「……私はもう、クタクタですよぉ」
 と、本当にいっぱいいっぱいな様子の小鳥。
「僕も疲れた……」
 おっとり口調にも陰りが見える、クタクタ白野。
 そんな四人は橘邸へと帰還するため、揃って純羽の車へと向かい乗り込んだ。翔羽は明日に向けての準備などで、一緒に帰ることは出来ないらしい。
 さざなみ祭の余韻を残したまま、橘邸に到着。各々、さざなみ祭でゲットしたものを手に持ちながら下車する。純羽はフリーマーケットで購入したテーブルクロス。白野は駄菓子屋で購入した駄菓子各種。小鳥は縁日風屋台でゲットした風車。そして舞羽は――。
「舞羽ちゃん、それ……どうする気なの?」
 白野の問いも当然である。舞羽が持っているもの――それは、かなり大きいサイズの土偶。なんでこんなものがフリーマーケットに出されていたのか、疑問に思ってしまうような代物である。
「これ? もちろん飾るんですよ〜♪ 中々ミステリアスで良い感じじゃないですか?」
 ……舞羽の感性を疑いたい気持ちでいっぱいな、舞羽以外の三人なのであった。

■■7

「それじゃあ、明日も頑張ろうな。小鳥さんは……まぁ、一応誘ってはみるけど、あまり期待はしないでくれよな」
 すでにダークスカイブルーに模様替えした空の下、翔羽はクラスメイトたちに向かってそう告げた。佐々原高校正門前には、明日のためのミーティングを終えた生徒たちの一部が集まっている。
「おぅ、頑張ろうなっ! まぁ無理やり誘うわけにはいかないだろうけど、なるべく小鳥さんに来てくれるように頼んでみてくれよ〜」
 翔羽の言葉を聞いたショートカットの女子学生が、明るい表情で返す。あのメイド喫茶でウェイトレスをしていたうちの一人だ。
「……努力はするよ。何なら、『由紀からの伝言』ってことにしておこうか? 何だか小鳥さんと仲良くしてたみたいだし」
「あぁ、何かあの人、私と同じ匂いがするっていうか……どこか似てる気がするんだよ。だから気があったのかもしれないな。――別に私からってことにしても全然かまわないぞ」
 ショートカットの女子学生――由紀は、そう言いながら小鳥と一緒に働いた光景を想起している様子。笑顔が絶えないことから察するに、由紀にとっては本当に楽しい時間になったのだろう。
「それじゃあ、明日も早いしそろそろ帰ろうか」
 由紀の表情を微笑ましげに見ていた日奈子が、携帯電話の液晶画面に映し出される現在時刻を確認しながら告げると、生徒たちは言葉に導かれるように各々帰路を進み始めた。――そして、翔羽と日奈子と由紀だけがその場に残された。
「さて、それじゃあ俺たちも帰るか」
 翔羽の言葉に二人が頷き、正門から校舎外へ。
 ――佐々原高校は、明日へ向けて早めの就寝についた。


「――ただいまぁ」
 流石に疲れが溜まっているのか、声と表情に重苦しさを湛えながら翔羽は自宅のドアを開けた。玄関で靴を脱ぐ動作も、どこか重い。
 ――しかし、ふと漂ってきた良い香りに、翔羽の表情は一気に緩む。だが、それと同時に疑問の表情も浮かばせていた。
「あ、翔羽君おかえりなさい。思ったより早かったですねぇ」
「あぁ、まぁ明日も早いから、早めに切り上げたんだ。……って、それはいいんだけど、この香りは?」
 出迎えの言葉に対してそう返してきた翔羽に、純羽は向けていた微笑を背後へ。
「喜んでください。今日は翔羽君、キッチンに立つ必要がありませんよ」
「えっ?」
「小鳥さんが作ってくださっているんですよ。今日はビーフシチューなんだそうです」
「マ、マジで!?」
 翔羽はそう言うと、一目散にキッチンへ。するとそこには、ビーフシチューを小皿に少し盛って味見をしている小鳥の姿が。流石に服装は私服に戻っていたが。
「あ、お帰りなさい。もう少しで夕食できますから、待ってて下さいね」
「……………」
 笑顔で言う小鳥に、翔羽は言葉を返すことが出来ない。小鳥はそんな翔羽の様子に不安感を抱いたのか、少し心配そうに呟く。
「あの……どうしました?」
「あ、その……何か、すっごく嬉しくって」
「えっ?」
「あの……普段は俺が食事作ってるんです。親父と姉貴は家事類全くダメなんで、食事作らなくてもいいんだって思ったら嬉しくって!」
 翔羽の言葉で、小鳥は再び笑みを取り戻す。ビーフシチューは、絶えず良い香りを漂わせ続けていた。


「……飯作らないで済む日が来るなんて、想像もしなかったなぁ。ビーフシチューも美味かったし、小鳥さんサイコー」
 食事を終えた翔羽は、自然とそう呟きながら二階の自室へと向かっていた。階段を昇る歩みも軽快だ。
 階段を昇りきり、自室の前へ。そしてゆっくりとドアを開ける。すると――。
「ん? 何だこの匂い……」
 翔羽の鼻に、ツンと突く匂いが勢い良く進入していた。――翔羽にとって嗅ぎ覚えのない匂い。
「――あ、お言葉に甘えて好きなように部屋、使わせてもらってるから」
 室内から聞こえてきたのは、特に感情のこもっていない白野の声だった。その白野は、いつの間にか室内に設置されているカンバスに向かって、絵筆を振るっている。どうやら、鼻に突く匂いの正体は絵の具だったようだ。
「あ、はい。それは良いんですけど……白野さんって画家なんですか?」
「うん、そうだよ」
 白野は答えながらも、絵筆を振るう手を止めない。そんな白野に独特な雰囲気を感じたのか、翔羽は口から漏れそうになった言葉を飲み込む。
 翔羽が立っている位置から、白野が描いている絵は見えない。見えるのは、カンバスの背面のみ。だが、そのカンバスの背面が、まるで生命を宿しているかのような錯覚を、翔羽は感じていた。――カンバスの背面で、何かが流動しているように感じていた。
 だから翔羽は動けない。出入り口付近に立ったまま、絵筆を動かす白野を見やり、漂う匂いを受ける。
 ここは本当に俺の部屋なんだろうか。――そう、ぼやけた意識で思考していた。

 白野の手は止まらない。必然的に生まれた翔羽の緊張感も、止まらない――。


「……ねぇ、君って今、幸せ?」
 何とか自分のベッドの上という居場所を確保した翔羽に向けて、唐突に白野が言葉を放っていた。視線は相変わらず、カンバスを捉え続けているが。
 翔羽は突然の質問に、視線を動かすだけで答えることが出来ない。――それも当然のことかもしれない。ただでさえ答えにくい質問である上に、その質問を投げかけたのはつい数時間前に出会ったばかりの人物なのだから。
 それでも数秒の沈黙の後、翔羽は白野に向けて答えを返す。
「う〜ん……幸せといえば幸せかもしれないし、幸せじゃないといえば幸せじゃないかもしれませんね。正直、『幸せ』っていうのがどういうことなのかが、俺にはわからないです。俺が作った料理を食べた親父や姉貴が「おいしい」って言ってくれれば嬉しいし、テストで良い成績が取れれば嬉しいし…他にも色んなことで『嬉しい』って思うことはあるけど、それイコール『幸せ』なのか――それはわかりません。逆も同じです。……まぁ、もし『嬉しい』っていうのが『幸せ』ってことなら、今のところ俺は『幸せ』なんだと思いますけど」
 いったい白野はどういう意図でこんな質問を投げかけてきたのだろうか。翔羽にはそれを確認することも出来なければ、カンバスに隠れてしまっているために白野の表情を窺うことも出来ない。
「ふ〜ん……じゃあ、『幸せになりたい』って思う?」
「『幸せになりたい』……ですか。そうですねぇ、やっぱりなりたいって思いますよ。でも――」
 言いながら、翔羽は小さく表情を引き締める。
「――でも、『幸せ』って『なる』ものじゃなくて『掴む』ものじゃないですか。よくマンガとかでもそんなこと書いてあったりしますけど、本当にその通りだと思います。だから、いつか『幸せ』を掴みとれればなぁとは思いますね」
 ――ふと、白野の絵筆を振るう手が止まった。室内が、完全なる沈黙に包まれる。
 そして、白野はゆっくりと立ち上がり、翔羽に視線を向けた。その表情には、穏やかな微笑を浮かべている。
「そうなんだ。……うん、頑張ってね」
 短く簡素な言葉だった。だが、何故か翔羽にはその言葉が重みあるものに感じられた。根拠なんてものは何もないのだろう。ただ、白野が持つ『何か』が、翔羽にそう思わせていた。――そういうことなのだ。

 沈黙が訪れ、再び絵筆が白野によって振るわれる。
 ここは、翔羽の自室。だが、今は翔羽だけの部屋ではない。
 ――【幸福画廊】の主、白野のアトリエでもあるのだ。

■■8

 翌朝、白野はやはりカンバスに向かっていた。翔羽にベッドを使うことを半ば無理やりに薦められ、睡眠は取っている。だが、それも四時間程度。時刻は午前五時。フローリングの床に敷かれた布団で未だ眠っている翔羽は、白野がすでに起きてカンバスに向かっていることなど、夢にも思っていないだろう。
 白野が振るう絵筆によって流動し続けるカンバスの内容を、翔羽はまだ一度も見ていない。それは、結果論としては翔羽自身がカンバスに描かれてる絵を見ようとしなかったから。だが、けしてそれは翔羽がその内容に関心を持たなかったからというわけではない。
 ――白野のカンバスに向かう姿勢が、白野の周囲を包む独特の雰囲気が、翔羽をそういった行動に移させなかったのだ。
 白野は絵筆を振るいながら、翔羽のイメージを脳裏に浮かべる。微笑む翔羽、怒る翔羽、呆れる翔羽、焦る翔羽……。その全てが、白野の頭中で融合する。
 絵筆は、一向に止まる気配を見せない。軽快に、カンバス上を舞い続ける。その動きを目の当たりにする者がいないことを悔やみたくなるほどに、その動きは優雅なものだった。


 ――さざなみ祭二日目。
 翔羽が拝み倒すようにして小鳥を連れて橘邸を出て行く中、白野は一人、翔羽の部屋でカンバスに向かい続けていた。翔羽の父――純羽は、橘邸に隣接する花屋のスペースで、仕事に精を出している。舞羽は昨夜遅くに「友達の家に泊まる」と言って出て行ったきり、戻ってきていない。
 半ば信じがたいことだが、白野は既にカンバスに描かれている絵を完成間近のところまで仕上げていた。描き始めてからまだ二日目、驚愕すべきスピードである。単に描くスピードが速いだけではない。――描かれている内容を見て、描いてからまだ二日目だと分かる者など、誰もいやしないだろう。


【幸福画廊】
その画廊の絵を見ると、人は幸せになるのだと言う。
これまでに味わったことのないような幸福感を得るのだと言う。
その絵を手に入れる為に世の金持達はこぞって大金を積むのだと言う。
全財産を叩いても、惜しくないほどの幸福がその絵の中にはあるのだと言う。


 それだけの噂が世に流れる【幸福画廊】。その主たる白野だからこそ出来る芸当。――いや、芸当などという言葉を使っては、失礼に当たるかもしれない。彼にとって『絵を描く』ということは物理主体なことではない。<全て>を頭中で構成する過程の中で、反射的に『絵筆を持つ手が動いている』のだろう。あくまで『絵を描く』という動作は、対象人物の幸福を見出した後の後続動作にすぎないのだ。



 時間と言うものは、意識しなければいともたやすく経過していく。既に時刻は正午を回り、ビニールハウスの中の花たちにはたっぷりと陽光が注がれている。
 店頭にある営業状況を告げるプレートを『REST』に変えて、純羽は昼食をとるために家の中へと入る。
 日曜日の昼。普段なら翔羽が作る昼食に舌鼓を打つことが出来るのだが、さざなみ祭のおかげでそれは無理。仕方なしに、純羽は冷蔵庫のにある適当な冷凍食品で済ますことに。
 いくら家事全般が苦手な純羽でも、冷凍食品くらいなら扱うことが出来る。電子レンジに入れて加熱する――それすら出来ないとしたら、もう『家事が苦手』などというレベルではない。
 数種類の冷凍食品を用意し終えた純羽は、階段の前まで移動し、階上に向けて声をかける。
「白野君、お昼出来ましたけど、一緒に食べませんか?」
 すぐに返答はこなかった。だが、純羽が聞こえなかったのかと階段を昇り始めようとした時に、階上からドアを開ける音が聞こえてきた。そして、階段の最上段に、白野が姿を現した。
「もうお昼になってたんですね」
 言いながら、白野はゆっくりと階段を下りてくる。絵の具の匂いが、導かれるかのように後を付いて来ていた。その匂いに、純羽は高校時代を懐古する。
 純羽は高校時代、美術部の部長をしていた。高校時代は彼にとって、忘れようにも忘れられない出来事が起こった時期。懐古は、純羽に複雑な心境を与えていた。
 だが、その事実が純羽の表情を変化させることはなかった。微笑みを湛えたまま、純羽は白野を迎え入れている――。


「絵の方は順調ですか?」
 冷凍食品が並べられたダイニングテーブルを挟んで、純羽は白野にそう切り出す。舞羽から、白野が画家であるということをあらかじめ聞いていた純羽。短期間であっても絵の道を進んだことのある純羽にとって、白野が描く絵に興味を抱くことは、至極当然のことだ。
「はい。もう、ついさっき完成しました」
「えっ、もう出来上がったんですか!?」
 純羽にしては珍しく、驚きの表情を前面に出していた。絵の心得を少しでも持っているからこそ、余計にその事実の凄みを理解することが出来るのだろう。
 白野はそんな純羽に対して、自慢げな態度を取るわけでもなく、謙遜するわけでもなく、普段通りのおっとり口調で言葉を返す。
「波に乗っちゃえば、そんなに時間がかかるものではないんです。――良い意味で単純な人みたいだし」
「ん? 単純な人って、どういうことですか?」
「……こっちのことです。あまり気にしないでください」
 純羽の質問に、白野は関心なさげにそう返す。舞羽から白野が画家であるということは知らされていた純羽だが、彼が『翔羽が一番幸せな時の構図』を描きに来たということは知らされていない。白野の言葉の真意を知ることが出来ないのも、当然のことである。
 純羽は一瞬怪訝そうな表情を浮かべたが、すぐに微笑に戻し、追求することはしない。聞いて良いことと、聞いてはいけないことを判断する能力を、純羽は自らの経験から身につけているのだ。
 冷凍食品とはいえ、最近のものは味も中々。でも、やはり物足りなさを感じてしまう純羽。翔羽君は今頃、喫茶店の軽食作りで忙しいんでしょうねと、冷凍食品の先に向けて愛おしむような笑みを向けていた。そして――

 ――そんな純羽に、白野は羨むような微笑を向けている。

■■9

「あ、おかえり」
「ただいま……って、何してるんですか?」
 さざなみ祭の出し物を無事に済ませて帰宅し自室のドアを開けた翔羽は、中に居た白野の姿を視認しながら呟くように言葉を放った。――定位置に置かれたカンバスを残し、他の白野の所有物は全てバッグの中に収められている。
「何って、帰り支度だけど」
「えっ!? 帰り支度って……もう帰るんですか?」
「うん。目的も果たしたし、待たせてる人もいるからね」
 表情も変えずサラっと言ってのける白野。突然のことに、翔羽は放つべき言葉を見出せない。
「それじゃあ、小鳥ちゃんに準備するように言ってくるから。……また後で」
 ――白野はそんな翔羽の横を、無表情で通り過ぎていった。ドアの開閉音が、室内に響く。
 知り合ってまだ二日目。しかも、翔羽が実際に白野や小鳥と共に居た時間は一日の半分――十二時間にも満たない。別れが近いとはいえ、それほど悲しみが生まれる状況ではないはずである。にもかかわらず翔羽は、白野と小鳥が去っていくという事実に気を落とさずにはいられないでいた。翔羽は直感的に、白野と小鳥との出会いがある種運命的なものであるということを感じ取っていたのだ。

「ただいま〜! 翔羽〜、ご飯食べに来たよ〜♪」

 階下から聞こえてきたやけに明るい声に、翔羽は我に返ったようにビクッと身体を震わせた。
 何処に行っていたのかも知れない舞羽の帰宅。翔羽は自然とため息を吐く。
「ったく、姉貴のやつ……」
 呟きながら、自室を出る。
 ――室内に漂っている匂いが、一気に薄れていった。


 翔羽と小鳥がキッチンで夕食の準備をしている間を見計らって、白野は舞羽に翔羽の部屋に来るように促していた。白野と舞羽は今、翔羽の部屋で向かい合って立っている。
「わざわざこんなところに呼び出すだなんて、まさか白野様……キャッ♪」
 舞羽は翔羽の部屋に入ったと同時にそんな言葉を白野に向けていたが、
「………何が言いたいの?」
 と、あっけなく一蹴された。
 まぁ、それは予想済みだったのだろう。舞羽は特に表情を崩すことなく会話を続ける。
「まぁ決まり文句みたいなもんなんで、気にしないでください」
「……そうなんだ」
「で、何か私に用ですか?」
「うん。……絵、出来たよ」


 ――瞬間、舞羽の表情は一気に引き締まった。


「……そうですか。随分と早く完成しましたね。って、白野様に向かって言う言葉じゃないですね、これは」
「ま、確かに今回は描きやすかったから、予定よりも早く仕上がったのは事実だね」
 言いながら白野はカンバスの隣まで移動し、台の両側に手を添える。そして、妖しさすら感じる笑みを湛えながら、舞羽に宣告する。

「――覚悟は、良いかい?」

 舞羽は自分の背筋を何かが猛スピードで通り抜けていったのを、実感していた。寒気が身体を包み、必然的に表情は強張る。
 それでも舞羽は首を縦に振っていた。まるで、逃げてはダメだと自分自身に言い聞かせているような、変に素早い首肯。
 白野はそれを確認すると、満足げに微笑んだ。そして、ゆっくりとカンバス台を回転させる。
 徐々に、舞羽の瞳に白野が描いた絵が映し出されていく――――。


「…………良かった」


 絵の全貌が舞羽の瞳に映し出されると、舞羽は溜め込んでいたものを一気に吐き出すかのようにその言葉を全身で表した。表情が、安堵に満ち溢れている。
 カンバスには、翔羽を囲むように舞羽と純羽、そして一人の女性が。その女性は、すでにこの世を去っている舞羽と翔羽の母、そして純羽の妻である智子。――家族の生き生きとした笑顔が、全面に描かれていた。
「気に入ってくれたみたいだね。――じゃあ、もうこの絵はいらないよね」
 白野は舞羽の様子を窺いながら、作者らしからぬ言葉を当然のように言い放つ。翔羽の誕生日プレゼントにするための絵に対して『いらない』とは、いったいどういうつもりなのだろうか。
 しかし、その言葉を聞いた舞羽も、
「えぇ、その絵をどうするかは白野様にまかせます」
 そう言うだけで、白野の言葉を否定しようとしない。
 白野は舞羽の言葉を聞き取ると、ゆっくりとカンバス台を回転させ、元の舞羽の位置からは絵を見ることが出来ない位置へ。そして、おもむろに万年筆を取り出すと、カンバスの端にサインを記す。
「舞羽ちゃん、折角だからもらってよ。じゃなきゃ、わざわざココまで来た意味が半減しちゃうもん」
「白野様……そうですね。この絵なら、本当に翔羽の誕生日プレゼントにしても大丈夫だし。……まぁ、だいぶ先になっちゃいますけどね」
 舞羽はそう言いながら、白野が差し出したカンバスを受け取った。

 橘 翔羽。彼の誕生日は六月の十五日。今はもう初秋であるから、すでに彼の誕生日は過ぎてしまっている。――そう、舞羽ははなから、白野の描く絵を翔羽の誕生日プレゼントにしようなどとは思っていなかったのだ。
 では、いったい何のために白野に『翔羽が一番幸せな時の構図』を描かせたのだろうか――。


「――舞羽ちゃん、そんなに不安になることはないと思うよ、僕は」
 ふと、白野がそんな言葉を囁いた。舞羽の表情に、陰りが生まれる。
 返答が来ないことを予測していたのか、白野はさほど待たずに更なる言葉を紡ぐ。
「弟君がこの先どんな人生を歩んでいこうとも、それを否定することは出来ない。自慢するつもりで言うわけじゃないけど、この僕が言うんだから、その意味はわかってくれるよね?」
「……えぇ、良くわかってるわ」
「舞羽ちゃんがいくら否定しようとも、弟君の人生が変わることは無いんだ。――だから、いくら弟君のことが好きだとしても、弟君のことを邪魔しちゃだめだよ。舞羽ちゃんも弟君も、いつか必ずココから離れていく。それは仕方の無いこと。それでお父さんが一人になることも、仕方の無いことなんだよ」
「わかって……ますよ」

「――そんなに『家族がバラバラになること』と……それに、『弟君が誰かに取られちゃうこと』が怖い?

 白野の言葉は、舞羽の胸に深く突き刺さった。身体が小刻みに震えだし、喉が瞬時に渇ききる。
「怖い……怖いわよ! お母さんが死んじゃってからだいぶ経つから、お父さんはそれなりに気持ちの整理がついてるみたいだけど、私はダメなの! まだ家族みんなで一緒に居たいのよ!! だから……だからしょっちゅう家に来てるんだから」
 舞羽の叫びを、白野はただ黙って受け止めている。叫びは、まだ収まらない。
「それに……何より翔羽が私の前から居なくなるなんてこと、考えられないわ! 考えたくも無いわよ!! ……白野様だから言いますけど、知っての通り私は翔羽のことが好きなんですよ。もちろん、姉弟としてっていう意味じゃなくて、一人の女として。いくら姉弟だからって、この気持ちはどうしようもないの。……今更諦めることなんて、出来ないのよ! でも――」
 舞羽は衝撃的な言葉を吐き出しながらも、徐々に意気を沈ませていく。
「――翔羽を本当に悲しませるのは、もっと嫌。だから……だからずっと我慢してるのよ。私が翔羽に好きだってことを告げたりしたら、翔羽はきっともの凄く困るだろうし、苦しむと思う。だから、これからも我慢していけばいいって、無理やり気持ちを押さえ込んできたのよ。だけど、翔羽にはもう好きな人が居て、それは私じゃないって思うと、耐え切れなくなる。どうしようもなく切なくなるのよ」
「だから、僕に『弟君が一番幸せな瞬間』を依頼してきたんだよね」
「……えぇ。もしかしたら、翔羽の相手が描かれるんじゃないかって思って」
 舞羽は言いながら、白野から手渡された絵を確認するように見る。表情に安堵が再び浮かび上がってきた。
「見ての通り、僕はその絵を描いた。だから、大丈夫。……舞羽ちゃんは少し気持ちを整理した方がいいと思うよ」
「えぇ、そうですね。……白野様、本当にありがとう」
 舞羽は深々と頭を下げる。そして少し疲れた表情を見せながら、ゆっくりと部屋を出ていった。

「…………ハァ」

 珍しく、白野がため息を吐く。舞羽に劣らぬ疲労感が、表情に浮かんでいた。
 白野は舞羽が階段を下りる音を確認すると、そっとカンバス台に目を向ける。――つい先程カンバスを失ったばかりなはずのカンバス台には、確かにカンバスが存在していた。舞羽の手に渡ったカンバスの下に、もう一つのカンバスが存在していたのだ。

「さすがに、舞羽ちゃんにこれは見せられないよね――」

 呟く白野が見つめるカンバス。そこに描かれていたのは――――




 ――――タキシードに身を包んだ翔羽と、寄り添うように立つウェディングドレス姿の女性。真っ白なカンバスに、満面の笑みが映えていた。

■■エピローグ

「白野様! よくぞご無事で!!」
「……た、ただいま朱里」
 飛行機で自国まで戻ってきた白野と小鳥。二人を待ち構えていたのは、もの凄い剣幕をした朱里だった。何の連絡もなしに白野を連れていった小鳥を責め続け、かと思えば、白野に対してはまるで戦場から帰還してきたかのような大袈裟な表現で、主の無事を喜んでいる。そのあまりの激しさに、さしもの白野も驚かずにはいられないようだ。

 何はともあれ、白野と小鳥はたった二日間のJ国滞在を終え、無事に屋敷へと帰還していた。屋敷に戻ると、J国での慌しい二日間が嘘のように、ゆったりとした時間が流れ行く。
 だが、J国での二日間が確かに存在したことを証明するもの、それを白野と小鳥はそれぞれ手にしていた。
 小鳥は、舞羽から無理やり手渡されたあのメイド服。小鳥本人はもう着る気はないみたいだが、わりと白野が気に入っている様子なため、もしかしたら再び着る機会が訪れるかもしれない。
 そして白野が手にしたもの。それは、自身が描いた一枚の絵である。あの、舞羽に見せることの無かった、翔羽と女性の絵。
 白野はこの絵を屋敷に飾ることに決めていた。だがそれは、自分が描いた絵を残しておきたいという理由からではない。
 白野が絵を飾ることにした理由。それは――――。



「――ねぇ朱里、もし僕が『結婚するからこの屋敷を出て行く』って言ったらどうする?」
 唐突な白野の言葉に、朱里は思いっきり運んでいた白野の荷物を落としそうになる。が、何とか踏みとどまりながら、慌てて言葉を返す。
「し、白野様!? ま、まさかそのようなお相手がいらっしゃるのですか!!」
「……質問してるのは僕の方だよ、朱里」
「し、しかしですね……」
「ふふっ、冗談だよ」
 白野のイタズラめいた笑みに、朱里は大きくため息を吐く。
「…………白野様、お願いですからそのような冗談はおっしゃらないでください」
「ごめんね、朱里。……でも、僕だって、もしかしたらこの屋敷を出て行く日が来るかもしれない。仮に結婚するとしたら、僕はきっとこの屋敷で生活していこうとは思わないだろうし、朱里のことが嫌いになって屋敷を飛び出していっちゃう可能性だって、絶対に無いとは言えないでしょ?」
「それは……確かにその通りだとは思いますが……」
「うん。だから、僕はこの絵を飾ろうと思うんだ。僕は今まで色んな人の『その人の幸せの瞬間』を描いてきた。その絵たちは、間違いなくその人たちの『幸せの瞬間』である自信があるよ。じゃあ、いったい僕の『幸せ』はどこにあると思う? ――もちろん、僕は『僕自身の幸せの瞬間』を知っているよ。でもね、J国で『この人』に言われたんだ。『幸せは<なる>ものじゃなくて<掴む>ものだ』って。だから、僕はこの絵を飾る。

 ――この絵の先に、僕が掴むべき『幸せ』があることを願って……ね」


【幸福画廊】
その画廊の絵を見ると、人は幸せになるのだと言う。
これまでに味わったことのないような幸福感を得るのだと言う。
その絵を手に入れる為に世の金持達はこぞって大金を積むのだと言う。
全財産を叩いても、惜しくないほどの幸福がその絵の中にはあるのだと言う。


 ――だが、【幸福画廊】の主は自身の絵を描かない。それは、自身が知っている『自分の幸せ』を超える『本当の幸せ』を掴み取れることを願ってのこと……なのかもしれない。


-end-

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--サンクス--
朱里白野小鳥ダグラス
深那 優さん:MY ROOM
作中に登場する舞羽さんや翔羽くんは、深那さんの小説「らぶ・ぱにっく」シリーズの登場人物です。
そちらの作品も是非ぜひ合わせてご覧下さい。

しかし、朱里が「ショタコン」と呼ばれる日が来ようとは……。ウケた〜っっ



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