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191 おっしょさん
2009年3月16日(月)

夢の中の知り合い、というのがいる。夢の中ではもう何十年来の親しいお付き合いを致している(と思い込んでる)人なのだが、目が覚めてから考えてると見合う実在の人物は一切微塵も浮かばない。たった今まで目の前にいて話し込んでいた筈なのに、目覚めた途端にふっつりと泡のように消えてしまう。そういう類の泡沫うたかた界の住人である。

先日会った泡沫の人は、私の人生の師であった。私はその人を「おっしょさん、おっしょさん」と呼んで懐いている。一緒に酒を飲みながら四方山話などしていた。「おっしょさん」と言っても、私よりは全然年若い青年だ。狐のような細い眼を更に細めて、始終薄笑いを浮かべておられる。色白細面のなかなかの美男なのだった。

「この菜の花の酢味噌和えは美味です」
そう言われて私は喜ぶ。つまみは私が作ったのだ。他に肉豆腐の鉢があった。
「料理がいいと酒が引き立ちます」 など言って、おっしょさんはにっと笑う。笑った口は頬の高さまで両端が上がった。円月殺法の軌跡のような口である。カーニバルの仮面にたいそうよく似ておられた。
「おっしょさんのお持ちになったこの酒も美味しいですよ」
ちょこを持ちつつ私が言うと、
なだです」
「灘の焼酎です」 と重ねられた。
灘は日本酒ではなかったか。その不審が未熟者の私の顔に出たのかどうか、師匠は杯を重ねつつ、
「灘、と付けると、有り難いのです」 と言うのだった。
なるほど、確かに有り難い。出所を問わず酒は灘だ。そう思おう。思うに限る。流石に師匠は含蓄があるなぁと思う。肉豆腐はもう少し濃い味付けでも良かったと箸でつきつつ考えた。

「最近なにかと気忙しく、無意味やたらとイライラして困ります」
など、私がこぼすと、
「怒らぬことです。無駄だから。私は二度と怒りません。そういう誓いを立てております」
涼しい顔で説くのである。そうか、怒らずの誓いか。師匠は出来た人だなぁ。こういう境地に達してみたいものだなぁ。

酒が切れたので、台所に立った。その間に師匠の知り合いが通りかかったようである。なにか、話し声が聞こえる。部屋の中に居る筈なのに、人が通りかかる辺り、夢らしいご都合主義である。
台所まで漏れ聞こえてくる声が、どうも剣呑になっていく。皿の割れる音が響くに至って、あれあれと徳利を持ったまま急ぎ戻ってみれば、そこはなんと。
師匠が見知らぬ男の首をきゅーっと絞めている場面であった。
「いいですか、私は二度と、怒らない、ので、すーっ」
きゅーっ。
師匠の色白の顔は血が上って真っ赤であった。絞められる男の首は対して蒼白であった。私の口から「おぉう」というような、ワケの分からぬうめきが漏れる。師匠がこちらを振り向いた。
「ついさん、怒らぬこととは気迫です!」

そして、師匠は煙のようにかき消えた。もう一人の男も、酒宴の席も消え去って、何もない白い空間には、
「師匠。流石、もの凄く含蓄のある……」
とつぶやく私だけが残された。片手に持ったままの徳利の酒。それを一口らっぱ飲みした。

起きてよくよく考えると。さて、師匠には含蓄なぞ一滴たりとてないような、そんな気がしたりもするのだガ。師匠、ああ、狐目のおっしょさんよ。またお目に掛かりとうございます。未熟者の私メを、どうぞよりよくお導き下さい。

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