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141 唯一の怪談
2006年6月18日(日)

霊の存在は信じないことに決めている。この世の人間だけでも不条理でいかようにも怖いのに、あの世のものにまで気をやる余力などナイのである。幽霊なんて居ないったらいない。
しかし、そんな私にも、唯一「怪談」と呼べそうな経験がある。小学校の修学旅行先で泊まった旅館での出来事である。

大きな旅館であった。割り振られた部屋に荷物を降ろしてから、他の班の部屋も覗いてみたりする。どれも和室で似たり寄ったりの作りだ。広々と清潔で明るく気持ちが良い。
だが、私達は妙な事に気がついた。私の班の部屋の向かい側、廊下を挟んだそこにだけ、なぜか通せんぼをするように腰までの高さの衝立が置いてある。その先は細い廊下が続いていて、2メートル先くらいにどうも部屋がある感じなのだ。私達の居る廊下は照明が点いていて明るいのに、衝立の先は真っ暗である。その唐突な差が何か異質を感じさせる。

「ココ、なんだろうね?」
「物置かなぁ」
そんなことを言い合いながらも、その時はあまり頓着せず、そのまま1階の売店に行って遊んだ。夕飯も済んで部屋に戻ろうという時に、エレベーター横の館内図に誰だったかが興味を示した。
「ここでご飯食べたんだね」
「今いる場所はココだー」
なんて、地図を見ながら騒ぐ。

「ココが○○ちゃん達の部屋だよ」
「じゃあ、こっちが私達の部屋だ」
そうして、自分たちの部屋の向かい。もうすっかり忘れかけていたあの暗い廊下の先を私達は地図上に見つけた。そこには確かにもう一室部屋あった。ただ、他の白地に番号の書かれた部屋と違って、そこは真っ黒く塗りつぶされているのだった。部屋番号もない。リネン室というような但し書きもない。ただ黒い。大きな旅館の館内図の中でそこだけボツリと黒いのである。

嫌な気持ちがした。小学生も高学年になれば、旅館の怪談くらい聞いたことがある。誰かが自殺して、そういう部屋には死んだ人の霊が出るとか、そうするとそこは開かずの間になるんだよ、とか。怖いし、怖いというのが気恥ずかしくもあるから、誰も敢えて口に出しては言わないのだけれど、その時、みんなの考えていたのはそのようなことだったろうと思う。

で。止せばいいのに私達はその部屋を見たくて見たくて溜らなくなったのである。怖い物見たさという奴である。
暗い廊下の前に立ちふさがっている衝立には、特に立ち入り禁止とも書かれていない。衝立自体簡易なもので、子どもの体ならその横をすいっと通って廊下の奥に入っていける。

噂が噂を呼んだのか、いつの間にやら他の班の子どもたちまで多く集まって来ていた。そのうちの何人かは気味悪がって遠巻きにしている。結局10人くらいで徒党を組んで暗い廊下の奥に向かって踏み込んだ。
空気が淀んでいる気がする。シンと冷えた心地がした。単に気分的なものだろうが、及び腰でそろそろ歩く。明るい廊下から数歩分しか離れていないのに、とても暗い。壁が光を吸い取っている。そんな感じだ。

「もう、戻ろうよぉ」
と誰かが言った。私も戻りたくなっていた。暗がりの奥は障子があって、格子の内の数カ所は破れて穴が開いている。きっとそこを開けたなら先程館内図で見た黒い部屋があるのである。でも、怖いからもうイイや、このまま帰ろう。帰ってしまおう。大体、部屋には鍵が掛けられているのに違いないし。

次第に暗さに慣れた目に、先程よりもはっきりと障子が見えてきた。
そうして、よくよく見ると障子戸は、何故だかほんの少しだけ戸口が開いているのである。丁度手が一本入るくらい。まるで、「どうぞ、おいで。いらっしゃい」と呼んでる感じに。「どうしても見てくれなくちゃダメですよ」なんて言わんばかりに。

息を詰めて、戻りたい気を押しとどめ、覚悟を決めて戸を開けた。そろそろと頭一つ分くらいを開けてみた。
部屋は私達のそれよりも少し狭いくらい。畳敷きで厚いカーテンが引いてある。長く締めきったままなのか押し入れのようなジンメリとした匂いがする。暗い廊下より更に暗い。机もなく座布団もない。ガランとしている。

ただ、部屋の中央に何かがあった。私達はごくりと生唾を飲んで視線を懲らす。
そうして、その正体を知ったとき。
「ひぃぃー」 と、喉の奥から勝手に声が突いて出た。自分が叫んだと思ったが、他の子の声だったかもしれない。
恐怖が心臓を鷲づかみ、というのはまさしくアレだろうと思う。転げるようにみんなが我先に逃げ出した。明るい廊下で待っていた子達も飛び出してきた私達に驚いて「ギャア」と放つ。そのまま、廊下の橋の端まで脱兎の如く走って、そこでようやく息をついた。「怖いー」「怖いよー」と鳥肌の立った腕を擦る。泣きべそをかいている子どもも居た。

暗い部屋の中に私達の見たもの。
それは残念ながらというか、当然と言おうか。お化けとかそういうものではないんである。
血だまりがあったわけでもない。火の玉が飛んでいたわけでもない。およそ、普通なら「怖い」なんて微塵も思わないようなものがあっただけなのだ。
それは、スリッパ。

暗い、8畳ほどの部屋の真ん中に、ぽつねんと茶色のスリッパがあったのだ。
畳の上、コロリと裏返された片方だけのスリッパを見た。本当にただそれだけのこと。種も仕掛けもお化けも怨霊もナイのである。
でも、館内図で黒く塗りつぶされた部屋。衝立で仕切られた暗がり。わびしく破れた障子戸……と来て、その後のソレは大したインパクトを持っていた。あんなに怖いもんは後にも先にもアレきり見たことがないのである。マジメにぞぞっと来たのである。この世で一番怖いのは、だだっぴろい畳間に意味不明に置いてあるスリッパですよ、皆の衆!

結局のトコ、ワケ分からんものは怖いのだ。説明のつかぬ事は必死で解明しようと考える。で、考えはあらぬ方向に行ってしまう。その「あらぬ」ものがもの凄くコワイ。あの日、私達は、ただ転がったスリッパにありとあらゆる恐怖の味付けをした。そしてその自身の考えに怯えまくってしまったのである。まったく人間の想像力ほど不条理極まるものはない。

かように。この世の人間だけででも十二分に怖さをまっとう出来るのに、あの世のものにまでわざわざご登場願う必要なんかナイのである。だからね、もう一度言っとくよ。
幽霊なんて居ないったらいないんだ。いないぞー。

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