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133 母の顔
2006年3月30日(木)

実家に帰っていた。母と二人で買い物に出ると、店の人から、
「まぁー、お顔がよく似てらっしゃること」 と言われる。
言ってくれた店員さんに向かってにっこりとする。私は母の顔が好きなので、母に似ていると言われるとそりゃもう嬉しいのである。実の母娘であるからにして、自分自身で比べても「こりゃ、似とるわい」と思いはするが、人様に言われるとやはり嬉しい。
嬉しさ余って、ついつい、
「いえ、まだまだ精進が足りません」
などと口走りそうになる。あわわ……と思う。いったい何の精進をする気だ、私?


母の顔は子どもの欲目から言うと、どこか高貴な面立ちである。でもって、般若面である。立ち居振る舞いは泰然自若とした風がある。大した方向音痴のクセに道に迷っている時さえも悠としている。余りに悠然と構えているので、横を歩く私は、今現在道に迷っていることに気づかない……。

幼い頃は、そんな具合で何度か道に迷わされた。早めに言ってくれれば良いものを、ぐるりぐるりとあっちの道を右に曲がり、こっちの道は左へそれて、どうにも起点が辿れなくなった時分になってようやく、
「ありゃ、道に迷うたごたる」
とやるのである。既に幼い私の足は歩き疲れてヘトヘトである。泣きかぶった私を元気づけるように母は言う。
「でも、大丈夫。ほら、まだ給水塔の見えとるけんね」

母の指差す先に小さく見える赤と白のツートンカラーの給水塔は私の住む町にある。それを目印にすればちゃんと家に帰り着くよ、と抜かすのである。道理である。が。だがしかし。その塔は山の上に立っているのだ。ヘタすっと市の境からでも見えるのだ。第一、あんなに小さく見えているものを「大丈夫」もなにもナイものだ。一体、母の余裕がどこから来るのか、子供心に首を捻った。昔むかしの思い出である。

それでも。母は悠としていて勇としている。そんな母の顔は不思議な安心感を私に与えた。いつでもどんな時にでも、「なんとかなるさ」という気分にしてくれた。夜道での般若顔は父以上に頼もしかった。私は母の顔が昔も今も変わらず好きだ。


残念ながら、私は「高貴」や「悠」は貰わずに、「般若」面ばかりを受け継いだ。母の顔と私の顔、確かによく似ているのだが、私の顔には今一つ妙味が足りない。とてもセツナイ。
やはり精進なのだろう。しかして、ナニを精進したものか? ともかくも歩き出さねばと思うのだが、いかんせん、目標となるべき給水塔が見あたらない。

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