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073 ご臨終デス(2)  ※より抜き日記--02/09/16

「臨終の言葉」 第2回でございます。
本日は文人達の最期を集めてみました。先ずは 『不思議の国のアリス』 の著者・ルイス・キャロル氏。彼は 「その枕を持っていってくれ。もう必要ないから」 ・・・とおっしゃったそうです。枕が高いと眠れない(永眠できない)タイプの方だったのでしょーか? なかなかにキテレツな 「臨終の言葉」 でございます。流石は不思議の国の世界を構築なさっただけの頭脳構造をお持ちダ! と見ました。ウィットに飛んでらっしゃいますね。

「怪談」なぞで有名な小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)氏。彼の言葉も面白いです。誰にどんな状況下で言った言葉かは勉強不足にて存知ませんが、「人の苦しがるのを見ているのは不愉快でしょう。あっちへ行ってなさい」 と言っちゃったんだそーです。

そのまま素直に読めば、「自分の苦しむ姿を人目に晒すのは心苦しい・・」 トカ、そーゆー風に良い意味にも受け取れます。しかし・・・どうなんでしょうね? 若しかして、 「一人で心静かに瞑想しながら死にたいんだよ。ワシは」 なんて意図があったのかもしれませんし、それとも単に、傍に居る人が実は八雲氏の大っ嫌いな人だったのかも知れません。お前、出てけよ!みたいなー(笑)。

そう八雲氏に言われちゃった人は、その後どうしたんでしょうね? 素直に出て行っちゃったんでしょうか? それとも、逆に取り縋って泣いたのでしょうか?

「あっち行け!」 と言われて、「はい、それじゃあ」 とは、なかなか出て行きにくい、その場の微妙な空気の程が想像されます。自分の死の床にわざわざやって来てくれている妻子・友人・知人などに対し、そんなイラン気遣いをさせてはイケマセンよねぇ〜。己の死を悲しんで集まってくれている人に対してくらいは、感謝の心を持ちつつ逝きたいモノです。

しかし、皆様! 
世の中にはもっとスッゲー人が居ました。
それは「坊ちゃん」「我輩は猫である」「こころ」等の名著で知られ、日本のお札にまで印刷されてる夏目漱石氏でいらっしゃいます。彼は死に際にこう言いましタ。

「ああ、苦しい。今、死にたくない・・・」
解ります。解ります。無念だったのでしょう。もっと書きたい作品もあったのでしょう。残していく妻子も心配だったのでしょう。心残りが多かったのでしょう。とても苦しかったのでしょう。まさしく「死ぬほどの」苦しみだったのでありましょう!!!

しかし、死に際の言葉が現在に残されている・・ということは、それを傍で耳にした誰かが必ず居た、ってコトでして・・。 (^^;
きっと、漱石氏のこの言葉を聞いたのは、妻子・友人・知人。その誰か。恐らくは彼の極々身近な人物でありましょう。唯でさえ身近な人の死は悲しいというのに、その当人にフクフクしながら、こんな今際いまわの言葉を吐かれちまった日にゃあ、アンタ!
後味悪くて、ものすごくイヤじゃあ ありまへんカ!  (T-T)
うう・・・こんな臨終の言葉、イヤだよぉぉ〜〜〜。ワタクシの知っている中でダントツのワースト1でございます。

しかし、病気や怪我で苦しかったり痛かったりすると、そーゆー言葉はついつい口をついて出てしまうものでありますよね。夏目先生! 教訓をどうもありがとう。
ワタクシ、死ぬときは必ず、要らん言葉をしゃべらぬように、口を塞いで死ぬことにします!!

自分を好きで、その死を悲しんで来てくれている人たちに、こんな不愉快は感じて欲しくありません。あー。ワタクシが死にそうな時は必ずガムテープを用意しておかなっくっちゃ。 φ(..。) メモメモメモ…


さてさて。
西行の時世の句が、とっても好きです。
「願わくは 花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」

ワタクシも願わくば、春の花や美しい月に看取られながらこの世を辞したいものであります。木蓮、レンギョウ、梅、桜。ワタクシは春に咲く花が大好きです。月の光の精錬さが好きです。

「社会契約論」を書いたルソーは最期に、こうつぶやきました。
「見てごらん。空はなんときれいに澄んでいるのだろう。私はあそこへ行くんだよ・・・」

この世で多くの偉業を成し遂げた昔日の偉人と自分を比べて見ることなぞ、とても無意味ではありますが。
叶うことならルソーの如く、自分の死を悼む人の心には、安らぎという形見を残しつつ去りたいものです・・・。それがワタクシにとっても救いとなるに違いありません。そういう辞し方が理想です。

・・・・いや。まだ当分は去らんがね(笑)。

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