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2015年11月 の日記  ↓下ニ至ル

#医者運の悪い私
2015年11月2日

「腹を立てている」というタイトルで今日はかなりの長文ツィートをした。お暇な方は見て頂けると嬉しい。お医者様だと尚嬉しい(医者側の意見が欲しいので。もちろん匿名にて構わない)ちなみに、この日記本文への医療従事者からの意見も切望している。今更であるし、今後もそういうスタンスだ。駄文にて書き切れていないが、
「それでも私は医療によって今も生かされているのだ」という気持ちは胸中確かにある、のでな。

今日は歯科関連での腹立ちの余り、他県に住む母に電話をかけた(だって無難だ)。で、顛末を語り終えて返ってきた母の台詞は「アンタと私は(つまり母と娘である筆者の私は)医者運が悪い」という言葉であった。それで想起しちまったし、こういうことは書いたり話したりで「流さないと」積もるのである。てか半世紀を経てようやく書く気になっちまったので、誰ぞ付き合ってくれたまえ。

私の胎児期に遡る。50年前である。母はかなり突然に子宮癌の診断を受けた。母は「自分は妊娠初期であるかもしれない」という申告を医者に告げた。何度も言った。でも、50年前ですらさして難しくはなかった筈の「妊婦か否かの検査」は一切行われることはなく、そのまま開腹手術に至った。結果、母の腹には私(胎児)がいて、しかも癌ですらなかった。母は大至急、個人病院から大学病院に移送された。母に寄るとその個人病院医師は大学病院側にこっぴどく叱責されたらしい(心ある看護婦さんからのこっそりな弁である)。ちなみにその医師本人・若しくは大学病院側からの母への謝罪は一切無かった。そういう時代であった。但し、大学病院産婦人科では(母曰く)「特別待遇」だったそうだ。大学病院の医師数人が掛かりきりで母と胎児である私を守った。そして私は生き残った。

これですんでいれば良かったのだ。だが、私は4歳で交通事故に遭う。外見上の怪我は軽傷だったが、右腎臓破裂していた。事故遭遇時の記憶は私には今なおもって生々しい。だがこれはこの日記で述べるには冗長であるのでなるべく省く。いやさ、省きたいのはヤマヤマだがマザマザと思いだしちまったものはしょうがない。しょうがないので、ちょっびっと触れる。許してくれ。

とにかく私は先ず近所の個人外科に運ばれた。骨折等ではないので事故後すぐに自力で立ち上がれたからである。で、その病院でレントゲンを幾枚も浴びる間に(昔の個人病院なので立って受けるレントゲンだった)4歳の私は「フラフラするな!」と叱責を受けた。無体である。そうこうしているうちに急を知った両親が到着する。私はあの時の親の表情が忘れられない。深い深いトラウマである。
やがて意識を失った。次に目覚めた時は救急車の中で(個人病院では対処しきれないとの判断があったのだろう)父が傍に居た。酸素マスクはめっちゃ濃い。息がしにくい。私はそれを嫌がった。小さな手で何度も振り払った。それを父が必死の形相で押しあてていた。またすぐに意識が混濁し、次に意識が戻ったのは大学病院(後の知識で思い返せば)のどこかの階段。タンカに乗せられていた。「頭を下にしないで、急いで!」って多分救急の人が叫んでいた。私は緊急手術を受けた。どこからどこまで悪いのか? それが分からなかったので、胸すぐ下から股間間際まで長く一文字の手術跡となる。損傷は前述通り右腎臓破裂のみであったが、これについては不平のひと言もなく、命を助けて頂いたことにただ心から感謝している。

さて「医者運の悪い私」にやっと入る。
私はこの手術退院後、しばらくしてから「腹壁ヘルニア」になる。簡単に言うと脱腸である。最初に異変に気づいたのは医者でなく母であった。当人である幼児の私には気づくべくもないが、手術後で痩せ細ているにも関わらず、私の腹は異様に突起していたらしい。大学病院側はなかなかそれを認めなかったが、結局「抜糸後の経緯が甚だ悪しく、再手術が必要」という事にあいなった。この際の病院側からの謝罪も一切無い。実際、謝罪するような経緯自体がないのかもしれない。医術面に素人である私には知るよしもないし、当時の父母には「ただ娘を助けて貰えるだけで有り難い」診断であったのだ。

しかし、私は数十年ずっと秘してきた事実を書こう。何故これを疑ってしまうのか?
事故手術時の縫合を受け持った若いインターンは、奇しくも胎児の時に私を殺しかけた(つまり母が妊婦か否かの簡単な診断すら怠った)個人病院の医者の息子だったのである。ちなみに、この医師は一族郎党が医者である。今現在もその名を冠した病院を地元には多く見る。私と母は二度と行かない。偏見と言われようが構わない。ここにその名も記さない。しかし、「因縁」若しくは「医者運が悪い」と母が思い、私が書いて悪いというのなら、その確たる根拠を教えて欲しい。私は真実が、ただそれだけが今なおもってひたすら知りたい。

大学病院とは6歳頃で縁が切れた(監査入院とかはあったが省く)。しかし、成人を過ぎて私はまたも同じ大学病院の別病棟に入院することになる。その時の何も知らない看護婦さんに尋ねられた言葉である。
「このおなかの傷、なんですかぁ? 随分汚い傷ですね。処置が悪かったんじゃないですか?」
私はまだ若かった(就職直後の年齢だった)ので、バカ正直に言ってしまった。
「幼少時の交通事故による片腎破裂で、その手術のあと、縫合糸がほどけたという理由で腹壁ヘルニア、2度目の開腹手術をしたんです。傷跡が汚いのはその所為です」
何も知らない(当然だ)当時の私と同世代だろう看護婦さんはこう続けた。
「わぁ、それ非道い。一体どこの病院ですか? 私も知ってるトコかなぁ?」
私は言わずにいられなかった。そしてその後の入院生活はとても気まずいものとなり、私は医者(また、それに関連するもの)に刃向かってはいけないということを強く学んだ。最近の事情はまた変わっているのかもしれないが……。

「ここですよ。私はこの大学病院で生まれ、生かされ、そして殺されかけたんです」
面白いことに、この二十歳代の入院で私はまたもや殺されかける……。

#ダメ人間の処世術
2015/11/06

我ながらダメ人間なのに、何故か倶楽部の部長などをやることが多かった。押しつけられてきたとも言える。これは大学漫研時代のエピソードである。ちなみに「漫研」と明記する必要も関連性も本文には一切ないが、事実なので書いておく。

定例の飲み会であった。みな上機嫌で3次会まで至った。私もしこたま飲んでいた。……さて、酩酊した頭で考えた。私は部長で責任者で、しかも我が校は女子大であったよなぁ、と。
3次会の会場で私は部員を見渡した。そして高らかに宣言する。
「ゴメンよ、私は酔っ払った。よって皆さん、助けて下さい!」

比較的酔っていない、計算に強い娘を見つけた。「ほい、あなた。レジにて勘定を人数分に割り振って貰いなさい。そして、全員から徴収して」
お次は下宿の近い者同士の区分けである。3〜4人に自己申告で別れて貰う。人数分のタクシーを飲み屋に頼む(携帯のない時代でな)。んで、更に私はグループ個別に申しつける。「よし、君が責任者。このタクシーの割り勘徴収は任せるよ」、「ここは貴女が責任者ね。この一年生が特に酔っているようなので、確実に送り届けて」

次々とタクシーが出て行く。最後が私を含んだグループになった。
「んじゃあ、すみませんが、残りの方々、私を無事に送り届けてクダサイ」

我ながらダメ人間なのに、何故か部長などをやることが多かった。みんなに助けられてきたと言える。有り難う。笑われたことはあるが、不思議と怒られたことはない。

#ダメ人間の処世術その2
2015/11/07

我ながらダメ人間なのに、何故か倶楽部の部長などをやることが多かった。押しつけられてきたとも言える。高校の演劇部ではやんちゃが取り柄の一年坊主、女装したがる同級生男子(二年生。表面に出さないがこれもなかなかのクセ者。面白い人だった)、そしてどう思い返しても私より頭脳明晰で、しかも意志強固な同級生女子二名の陰謀で、私は部長に祭り上げられた。

自分なりに出来ることは全てやった。たった5人の弱小部なので演じる台本は限られる。人数に合わせた脚本の書き換え、他部との交渉、高所での照明設営などである。高校体育館でのライト設営はなっかなかの高さだぜ。ヤンチャ君は危なっかしくてみんなが止めるし、オカマ君は(本人がそう言っていたので、もうこの呼称で良かろう)「いやーん、僕コワイ」って言うし、他女子二人は知能犯なので然るべき理由でさっさと逃げた。演劇部顧問教師が「女子は危険だから止めなさーい」というなか「じゃあ、お前がやるのかぁ?」と私はジャージに着替えて、設営作業をしたのである。

さて、この後コトは起きる。演劇部なので当然文化祭に出る。したらば、生徒会会議の後、文化祭に出る他部の部長連から呼び止められた。演劇部に抗議を申し立てて来たのである。曰く、
「何故、文化祭開始セレモニー直後の全校生徒が集まった場で、演劇部だけが小一時間近くも上演しやがるんだ!? 不公平だ!」

文句を言ってきたのは、ギタマン(ギター・マンドリン部)など体育館の舞台を使う部長4名であった。この発言、私には衝撃的だった。私、中高とずっと演劇部員であり、ご指摘通り確かに毎年開始セレモニー直後の演劇部の観劇は全校生徒強制参加行事であった。そして、ずっと当の演劇部であったが故に私はこれに一抹の疑問も感じていなかった。伝統的にそんなもんだと、当たり前だと受け取っていて、きっと他部もこれまではそうだったのだろう。この歴史に一石を投じたギタマン部長よ、この矛盾、そして貴方の抱える苛立ちを教えてくれて有り難う。私は君に感謝している。

しかしてここで「ああ、成る程。そうですよねー。演劇部だけ特別待遇はオカシイですよねー」とは口が裂けても言っちゃあイケナイのが部長という立場である。前述通り、我が演劇部は弱小5名。対するギタマンは50名は居ただろう。絡んできた他部も十数名単位であった。私は考える。人数的にも道義的にもただ「慣習です」だけでは私はこの論争に絶対的に勝てない。しかも私は彼らの「何故演劇部だけが特別で、他部は鑑賞者が少ない自由観賞であるのか」、という腹立たしさと「折角練習して演じる以上、一人でも多くの人に観て欲しいという思い」を心苦しいほどに理解してしまっていた。窮地であった。

倫理的には絶対勝てない。でも演劇部はたった5人なのである。友人に声をかける、親戚を寄せ集める。誰が来る? 何人来る? 浮かんだのはすっからかんの体育館と、そこで演じるクセ者オカマ、げにもオソロシイ同級生女子の顔である(ヤンチャ坊主はアッケラカンときっと何も言わないな)。女子のうちの一名はその明晰な頭脳故に学級委員長をしていたが、当時校内に轟いていたそのあだ名が「組長」である。級長ではないよ。「クミチョウ」である。この呼び声、推して知るべし。ここで引き下がったら、あいつら全員で必ず私を〆ると思った。地獄を見る。後にも先にも崖っぷちな私は我ながらとても姑息な手段に訴える。

「ご意見は尤もです。納得しました」
ギタマン部長以下があちらも姑息な顔でニヤリとした。
「でも、その場合、演劇部が所有している照明器具は一切お貸ししません」
ギタマン部長以下が青くなった。
「照明器具が高額なことをご存知ですか? 毎年演劇部が高所に登って設置していることもご存知でしょうか? 学校側から割り当てられる部費が部員数に比例して割り当てられることは流石にご存知ですよね? 照明器具は我が演劇部が少ない予算から少しずつ買い足してきたものです。当たり前のようにこれまでお貸ししてきましたが、こちらも矛盾が分かりました。もうお貸ししません」

照明器具は高所に設置されるもののみではない。足下に設置されるものもある。また、色つきセロハンを貼り付けて、青だの赤だの雰囲気を出すためのものもある。それら全てを総括して制御する操作盤すら演劇部員で理科の先生に習いながら手製で作ったものである。ちなみに、これらが一切無いと、マジで舞台映えしません。これは高校側自体が悪いと私は思う。体育館に舞台があるのは校長の演説を聴くためだけではなかろうに。

絶体絶命の大ピンチだと思ったのに、結局私は勢いと気迫と脅迫まがいのごり押しで勝ってしまった。それどころか「演劇部はご存知の通り現在5名しかいなくて、それなのに、他部の照明制御係にまで借り出されて毎度困っていたんです。操作盤の使い方の説明会を後日行いますので、ご自分達の舞台の照明操作は今後は各部で行って下さい」という余禄まで付けてしまった。ここまで来たら今更なのであちらの鬱憤を蹴散らして、こちらの日頃の憤懣も晒してみちゃった、うふふっ。

ちなみにこの話、私以外の部員全員が多分知らない。顧問教師も確実に知らない。私はただ「他部の照明操作はもうやらなくてよくなったから」という必要事項しか伝えなかった。長い話になってしまうし、方々でヘタな軋轢が生じても困るし、なにより「我ながら、もの凄く卑怯な手段だったなぁ」と深く反省していたからだ。我が身を守るためになりふり構わなかった、私はダメ人間である。


後日談であるが、文化祭のあとが体育祭だった。運動音痴にも関わらず、何故だか私はこの時も何某かの役員をやっていた。その用で本部席テントに座っていた時である。隣の椅子に男子生徒が座った。短パンにめっちゃすね毛(いやさ、太もも毛)の濃い人で、私はそれにぎょっとしていた。その男子生徒が唐突に話しかけてきた。こちらを見るでもなく前を向いたままだった。
「あの一件はお見事でした」
私は何を言われているのか分からず、隣の生徒の顔を見た。すね毛もじゃは生徒会長だった。

私は何も言わなかった。会長もそれ以上ひと言も言わなかった。会長の立場で公にすべき言葉ではない。それなのに言ってくれた。だから聞かなかったことにした。でも、私はその時ちょっと救われた気がしたのだ。姑息な手段であった。今こうして書いていても恥ずかしい。でも、身長155cmのチビで冴えない女子一匹が、自分よりバカデカイ男子生徒4人に囲まれ、正論で詰め寄られて、それでも引かなかったのだ。生徒会長はきっと会長の立場として一部始終を聞いていたのだろう。もしかしたら仲裁に入る気でいたのかもしれない。私が驚き、恒例なのに厄介なことになったもんだと思ったように、同様のことを思っていたのかもしれない(ギリギリの時期で一時間のプログラムの狂いは生徒会側にもキツかろうから。そういう私とは別角度での話だが)。

あの時の姑息でダメ人間な私を「お見事でした」と評してくれた生徒会長と、その後一切の苦情もなかった他部部長達(部員には私と同様、詳細を告げなかったのだろう。その場合、きっとこじれていたろうと思う。チビで冴えない女子一匹への侠気と解す)に感謝している。ありがとう。

あ、私、ギタマンその他の演奏時間、ちゃんと体育館に観に行ったよ。どの部もそれなりの観客が入っていた。良かったと思った。

#ヒトサライ未遂事件
2015/11/11

小学1年生の時だったと思う。急な不幸があって、私は学校を早退した。母は私を連れて近所のデパートに駆け込んだ。きっと香典袋とか黒いストッキングだとか、何か急ぎ買うべき品があったのだろう。母は私をおもちゃ売り場に連れて行き、「すぐ戻るからこの辺りで待っていなさい。遠くに行くんじゃないよ」と言った。小さな私を連れ歩いての買い物はムダな時間が掛かるとの判断からかと思われる。母はもの凄い早足で何処かの階へ消えていった。

私は母の言いつけ通り、その辺のおもちゃをぼんやり見たり手に取ったりしながら母が戻るのを待っていた。そうしたら、見知らぬおばちゃんに声をかけられたのである。
「お嬢ちゃん、今は学校の時間じゃないかな? どうしてここに居るのかな?」
腰を屈めてにこやかに私にばっちり目線を合わせて話しかけてくるおばちゃん。でも、その目が全く笑っていない。私はすぐにこのおばちゃんの正体を察した。当時は小さくて言葉を知らなかったが、補導員か若しくは私服警官である。私は小学校をサボっておもちゃ売り場で遊んでいる不良児童と間違われたのだ。

私は必死に弁明した。お葬式に出るために学校を早引けしたこと。母がすぐに戻ってくること。「だからほら、私黒い洋服を着てるでしょ?」子どもなので完璧な喪服とはいかなかったが、私のその時の服装はそれなりに私の言葉をきちんと裏付けていたと思う。

でも、このおばちゃん。私の話を全く信じてくれないのだ。「お名前は何かな? 学校名は? おうちの電話番号は言えるかな?」そして私の手を引いて、事務室だか警察だかに引っ張って行こうとするのである。
私は恐慌をきたした。このままこの場を離れれば、母は私を探し出すのにかなりの時間を取られることになるだろう。きっと葬儀に間に合わない。それでどれだけ怒られるか、何故きちんと状況を説明できなかったかと責められるか。どんなに説明してもこのおばちゃんが分かってくれない人なのだというその説明を母に納得して貰うのに私はどれくらい苦労するのか。

とにかく、ちょっとでも長くこの場に留まり続けることが重要だった。力では絶対的に大人に勝てない。現に私はもう数メートル元の場所から引きずられていた。そこで究極の選択として思いついたのが「ぎゃー、ヒトサライー!」と叫ぼう、だった。私とおばちゃんの押し問答を周囲の人がそれなりの数遠巻きに見ている。不穏なる言葉を子どもが叫べば、おばちゃんには悪いが、少なくとも数分の足止めにはなる筈だ。もうこれ以外手はない。

大きく息を吸って叫び声を上げようとしたその時、
「どうしたの? 何事?」と待望の母が戻ってきた。大人ってムゴイと思うほど、母のおばちゃんへの数言で私への誤解は解け、いともあっさりと解放された。本気でヒトサライと思ってもいない人にヒトサライと叫ぶのはかなり嫌な事で、しかも子どもの浅知恵である。騒ぎを無用に大きくせずに済んで良かったと私は心から思ったのだが、そんな私の手を引いて葬儀会場に急ぎつつ、
「あんたは本当にぼーっとした子やねぇ」と母はため息をついていた。
ぼーっとどころか、ヒトサライ未遂事件(しかも冤罪)の勃発一歩手前でしたよ。メンド臭いので誰にも話していない事件なのであるが。

追記:コメントを頂きました。その中の一つ。
>>こういうのよくありますよね。おとなって酷いと本当に思えますw
+++コメントありがとうございます。久方ぶりのコメントなので舞い上がって、この日記の後日談を付け足しますw。あ、割愛させて頂きましたが、大根の葉っぱ、実は大量に頂いたのでまだ半分しか消費しきれていないんです。次は炒めてみますね。

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先日の帰省の際、私はこの件について母に尋ねてみました。@この事件覚えていますか? Aあれは誰の葬儀でしたか? 結果。母は覚えていませんでした。「うん、そんなことがあった気はする。でも、誰の葬儀だったかは分からない」私も親戚筋の葬儀でなかったことだけは覚えています。知り合いが居ませんでしたので、母の友人、若しくはその親辺りの葬儀だったのではと思います。
で、母が怒るんですよ「何故当時その顛末をきちんと私(母)に言わなかったのか?」これ理不尽です。事後、到着した誰の葬儀ともワカラヌ会場で長時間神妙なる子どもを演じた私はくたびれている。帰途の母も疲れた顔をしている。この状況で「あのね、さっきのデパートでね」と切り出せる子どもは少数だと思います。翌朝には「もう終わったことだ」と思いますしね。で、返した言葉は「お母さんの遺伝子を受け継いでるから言わないんじゃん」です。母も私もある意味無口な人間でして、互いに秘密が多い多い。50年たって今更明かされる事柄が出るわ出るわ。母曰く「お前は私の思っていたような子どもじゃなかったんだね」で、私はこれを自分勝手に褒め言葉と受け取っています。

#一生のお願い
2015/11/21

マンガなんかで目にするのだが「一生のお願い」って、慣用句だか前置きだか枕詞だか多分どれでもない言葉がある。更に上行く「後生だから」もある。お前は来世の分まで願い事の前借りするんかい!? って話だが、「後生だから」はネット検索するといろいろ面白い考察がある。お暇な方はどうぞ調べてみてくだしゃんせ。

「一生のお願い」に話を戻す。私はこれまでの人生で「一生のお願い」を一度も言われた覚えがない。ついでに使ったこともない。ダンナにも尋ねてみたが、彼もどちらの経験もないそうだ。でも、子どもの頃の友達にこの言葉を頻々と使う子がいたのは覚えている。「お母さん、一生のお願いだからおもちゃ買って」、「今日のご飯はハンバーグにして、一生のお願い」
「一生のお願い」の本来は、一生にただ一度きりのお願い「だから」どうぞ叶えて下さいだろうに、軽いノリで使う人と使わない人がいるというのはとても面白いと思う。

で、だ。つまり私は折角(?)の「一生のお願い」権をまだ行使してないわけだ。大体、この権(もしくは肩たたき券みたいな「券」かしらん)って、使う本人に取って一度きりなのか、使う相手に対して一度きりなのかがイマイチ不明確である。相手に対して有効ならば、かなりの数の「一生のお願い」ができる。でも、私的に誰彼ともなく使う言葉じゃないよな、とも思うので、このたびは唐突ではあるが、ダンナへの「一生のお願い」を考えてみることにした。

ところが。ナイのである。「なにかを買って」弱すぎる。「どこかに連れて行って」も違う。「私より先に死なないでね」はかなりイイ線いっているが、これは本人より神様に念じるべきお願いだろう。したり、一生のお願いは難しい。今後の課題としておこう。

余談。なんのマンガだったか忘れたが、モンモンとした思春期特有の悩みを抱えるさえない男の子が、幼なじみ(だったかな?)の女の子に「一生のお願い、ヤらせて!」って飛びかかるシーンがあった。幾多ある「一生のお願い」の中でも、切実で、並み優れた使用法だと思う。当然この男の子は直後女の子にぶん殴られてのびていた。「一生のお願い」は滑稽さが身上なのかもしれない。


2015年11月 の日記




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