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#四杯の水
2010年3月6日(土)

ピンポーンと玄関ベルが鳴った。二十年近く前のことだ。私は未だ充分に若かった。所謂「新妻」然として初々しい盛りであった。家事は生活だったが、おままごとのようでもあった。「奥さん」と呼ばれるのが新鮮で、その呼称に応対するのにようやく慣れ始めた、そんな頃の話だ。

玄関ベルが鳴ったのである。「はぁーい」と愛らしく出て行くと、狭い玄関先におばちゃん団子が出来ていた。
おばちゃん団子。アレを他にどう表現しろというのか。二人の太ったおばちゃんと標準体型のおばちゃんと、痩せて他より少し若めに見えるおばちゃんが総勢四人、ドアで押し合いへし合い、こちらを凝視していたのだ。ギョッとした。思わずたじたじと後ずさる。折しも時は夏真っ盛り。セミの声がミンミンでなくギィンギィンと聞こえるくらいうるさく響く暑い午後であった。おばちゃん連は水を被ったように汗まみれではふはふ言っている。当時の我が家は社宅の四階であった。エレベーターはない。息が切れるのも頷ける。

「あの、どちらさ……」
「水!」
「……は?」
「お水頂戴。冷たいの」
どちら様ですか? と訊こうとした私の声を遮って、ボス格らしき一番太ったおばちゃんが唐突に水を所望なさる。二番目のおばちゃんも三番目のおばちゃんも唱和する。
「お水よ、とにかく先ずお水!」
「ね、ほらぁ。みんな喉がからからなんだってば! 早くぅ」
デスノートLのAA「何が何だかわからない」
とにかく水を汲みに台所へ。頭の中では「?」マークが踊っている。冷えたウーロン茶を出すべきかと思ったが人数分には足りなかった。「い、いいんだよね、水で」と四人分のコップに水を汲み氷を浮かべてお盆に載せて持っていく。脳みそは相変わらず狐に摘まれたような気分のままだが、なんとなくうきうきとしたのも確かである。当時来客は少なかった。来客用に用意したコップが一度期に使われるのは珍しかった。

おばちゃん連は一気に水を飲み干した。あまりに旨そうに飲み干したので「もう一杯、お持ちしましょうか?」と口走りそうになった程だ。
「あー、生き返ったぁー。ありがとう」
「はぁ、どういたしまして」
「でね、奥さん。奥さんでいいのよね。若いわね」
「はぁ」
「私達、保険の外交してるんだけど」
「は?」
「保険、イイのがあるのよ。入らない?」

なんと。おばちゃん連は保険屋だったのだ。そのオドロキ。保険屋が団子で来てよいものか。なぜ保険屋が我が家で突如水をたかるか。理解不能。腑に落ちない。

その後、お引き取り願うのにそりゃもうさんざの苦労をした。途中でこっちが「ちょいタンマ、水を一杯」と言いたくなった。保険屋が団子で来る。あれはテロだ。四対一なんて卑怯である。しかも海千山千なおばちゃんだ。私の闘いは嵐の海の一艘の小舟のようであった。なんとか契約無しに追い払えたのは僥倖であった。

四つのコップを洗いつつ、私はしこたまくよくよした。たかが水の一杯や二杯(四杯だガ)イイんだけども、少なくとも先に保険屋と知った上で出すべきだった。それならああも悔いはしなかったであろう。おばちゃん連は若い私を侮りやすしと見て取ったのだ。それで強引に水を要求した。その後の会話がスムーズに運ぶと踏んだのだろう。ついでに無料の水分配給にもありつきたかったのであろう。そんなおばちゃん団子に気圧されて、相手の素性も確かめず私は水を出してしまった。おままごとのようにお盆に載せてうやうやしく水を運んだ。それを深く悔いたのである。
生活はやっぱままごとじゃねぇな、とそう思った。むぅ、四杯の水、口惜しき。


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